自民党政治家の石破さんが、映画「シン・ゴジラ」において、ゴジラに対して、自衛隊を防衛出動させたのはおかしい、と言っていたわけだが、まったく、もっともだと思うわけである。石破さんの意図は、「災害派遣」でいいのだ、と。というのは、たとえ「災害派遣」だったとしても、
- かなりのこと
を自衛隊はやれるのだから、ということであった。まったく、ごもっともな話なわけだ。つまり、このことがなぜ日本において、憲法第9条が改正されないのかを説明していると言える。つまり、私たちは「戦争」をしなくても、かなりのことができる。たいていのことは「防衛」できる、ということを言っているわけである。
もしも、「シン・ゴジラ」が、「災害派遣」として自衛隊を使っていたなら、なかなか興味深い議論になっていただろうが、今のような大ヒットはしなかったかもしれない。つまり「シン・ゴジラ」の監督さんは、そのグレーゾーンに対して、憲法9条「非現実」論の方に、倒した、と解釈することもできると思っている。しかし、むしろその議論を「あせった」がゆえに、本当の意味での
- リアリティ
を、この作品はのがしてしまった、ということになる。
同じことは、アニメ「君の名は。」についても言えるであろう。2ちゃんねるで何度も指摘されているが、瀧と三葉が入れ替わった
- 最初
で、なぜ「三年前」だということに気付かないのか? あまりにも「おかしい」。この異常さは、どうがんばっても、とりつくろえない。まず、曜日が違うはずだし、そもそも、ずっとケータイを見ていて、日記がわりにまでしていて、ケータイで私たちがあまりにも「当たり前」に、時計代わりで使っている現実を考えるなら、おそらく、この作者は、ケータイを使わない主義の人なのだろう、とでも考えないと、とても説明できないレベルだと思われる。せめて、この矛盾だけでも、作品の中で解決していてくれたなら(瀧と三葉が入れ替わった「最初」で、三年前だと気づいていた、といった描写にしていれば)、その他はまだ、目をつぶれていたわけであって、残念なのだろうが、あまりこの辺りを作品の文脈と関係なく、もたもた描くと、スピード感がなくなってしまい、傑作ではなくなる、というわけである。
(たとえば、どっかの誰かが、ディズニーの「ズートピア」が、肉食動物と草食動物が、一緒に暮らしていることを「食料はどうしているのか」という意味で、「異常」だと言っていた人がいたが、しかし、ズートピアの社会はそもそも、さまざまな動物が人間社会のような社会を形成しているという時点で「比喩」だということが分かるわけで、そう考えれば、これが「人間社会における<人種>」のアナロジーであることは自明なわけであろう。他方、なぜかその人は「君の名は。」を無条件で傑作だと言っているわけで、ようするに、自分が「言いたい」ことを言ってるだけなんだろ、と思わざるをえないわけであろうw)
一見すると、こういったことは「瑣末なこと」と思うかもしれない。しかし、そうだろうか?
あなたの友人のキャロリンは、大規模な公立学校給食を総括する責任者であり、毎日、何十万人もの生徒たちに給食を支給している。ある日キャロリンは、友人の経営コンサルタント、アダムとともに、カフェテリア形式で支給される給食に関して、大規模な実験を思いついた。食品のメニューを変えずに、その並び方を変えた場合、生徒たちの消費行動がどのように変化するのかを調べるという実験である。さまざまな陳列方法を試してみた結果、多くの食品に対して、その消費量を最大で二五%増減できることが分かった。手前に並べた食品のほうがよく選択される、といった差が生まれたためである。生徒たちは、自由に食品を選んでいるつもりでも、陳列方法の違いで消費量を変えてしまう。さてキャロリンは、この調査結果を受けて、学校給食の統括者としてどのような陳列方法を採用すべきであろうか。
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まあ、普通に考えて、前にあって目立ってるんだから、それに最初に手が伸びることは自然であろう。上記の引用はこの問題に対して、「パターナリズム」で「解決」しようとしている。だったら、最前列に何を並べることが
- あなたのため
になりますかね、と聞いているわけである。しかし、何度も言っているように、キャロリンは「認知的不協和」によって、最も自分が儲かるものを、最前列に置こうとするし、そのことに「イノセント」でさえある。しかし、これが「パターナリズム」なのである。パターナリズムが悪いのではなく、パターナリズムは「説明しない」ことに本質がある、ということなのだ。
エリートは、大衆に自分の行動を「説明」しない。それは、そもそもエリートは自分が大衆より頭が良いと思っているから、自分の説明を大衆は理解できない、と思っているから。彼は、エリートが大衆に説明しなければならない、という共通認識をもっていない。エリートは大衆を「操作しよう」とするときだけ、大衆に語りかける。
これに対して「見える化」や「アカウンタビリティ」は、
- なぜキャロリンは最前列に「それ」を並べたのか
と質問をされたなら、それに対する「合理的」な説明を用意しなければならない。もしもそれをやらなければ、単に、そのエリートはその役職から外されるだけである。
こういったシステムは、優秀なエリートの能力を生かせていないのではなく、優秀なエリートが深刻な認知的不協和におちいっていて、国家の存亡を危うくする「リスク」を回避するわけである。大事なポイントは、この認知的不協和が本人にとって、意図的か無意識かの区別など、他人にはどうでもいい、ということである。
エリートの認知的不協和を「解決」するのは、
だけです。集合知は一種の「ミーム」であって、そのロジックが整合的なので、他者が「抗えない」わけです。なので、急激に「拡散」する。これが民主主義です。
エリートが「見える化」や「アカウンタビリティ」を強いられることは、彼らが「集合知」の進化の「競争」にさらされることを意味します。エリートという「自同律」的な「権威」は、ここにおいては通用しないわけです。
もしも、一般的パターナリズムに正当性の余地があるとするなら、「見える化」と「アカウンタビリティ」による、としか言えないでしょう。あらゆる「パターナリズム」は集合知の反撃に会うし、それに対して、ロジカルな応答ができない時点で、ミーム進化的に淘汰される。非民主的エリートは淘汰される、というわけです。
尾高朝雄の「ノモス主権」論は、憲法制定権力としての主権に対する批判である。つまり、国家生活の基本的なあり方や形を定める憲法を決断することに主権を見出す、言い換えれば誰が決断するのかという問いによって主権を論じるカール・シュミットらの主権論への批判である。尾高は、誰が主権者と呼ばれようとも、主権者もまた規範に拘束されると主張する。その規範が「ノモス」である。というのも、法を決定できる主権者こそ恣意に陥ってはならず、「正しい法」を作るべく拘束されなければならないからだ。「ノモスの主権とは、むしろ何が法であるかを決定する力をもつた人々の心構えでなければならない。権力を有する者が、その思うがままに法を作るのが主権なのではなく、いかに権力を有する者といえども、法の根本原理にしたがって不断に正しい法を作るための努力をつづける義務があるという意味で、ノモスが権力の上に位するのでなければならないからである」。
このような観点から、尾高は統治権を捉えなおす。すなわち、たとえ明治憲法において天皇が統治権を有すると定められていても、天皇は「ノモス」に拘束されているのであり、国民が抱いている「法の正しさへの志念」に従わなければならないのである。
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エリートは「法」に拘束されるということの意味は、エリートはなんらかの「ロジック」に拘束される、ということでもある。エリートは「法」の範囲において、自らの権能を十全にするのであって、それ以上でもそれ以下でもない。それは、明治憲法下の天皇についても同じで、ここにおいて、尾高朝雄の「ノモス主権」論は、ルソーの一般意志やカール・シュミットの独裁論における
- 主権の絶対性(=全体主義の恣意性)
に真っ向から対立する。独裁者は「なんでもいい」ではない。ルールに従わない独裁者は、逆説的ではあるが、
- 淘汰
される、というわけである。
さて。蓮舫さんの、いわゆる「二重国籍?」問題であるが、この「ヤクザの当たり屋」的行為の言い出しっぺの、学者さんが、法務省にレクチャーを受けに行ったのだそうである。
中国と台湾どちらの法律が適用されるかどうかということについては、法務省としては判断を下す立場ににないということだ。つまり、たとえば、蓮舫さんのように日本国籍選択宣言をしたとして、他の国籍を解消することに「努め」ねばならない。努めねばならないという程度は、精神規定のようなものではまったくないが、一方で不可能でなければやらねばならないというほどには強くないという。よほど難しい事情があれば仕方ないということか?そういう意味では蓮舫さんのケースではそういうものはないわけだが。
それでは、蓮舫さんのような台湾籍の人が国籍選択宣言をした場合は、どうすればいいのか。それは、もうひとつの国とのあいだでやるべきことをすればよいのであって、その相手がどこか(中国か台湾かとかいうこと)とか、自動的に無効になっているかどうかとかいうのは、法務省の判断することではないというのである。
蓮舫二重国籍についての法務省見解はこうだ(増補あり) – アゴラ
おそらくこの学者さんは、もっと「分かりやすい」話を聞けるのだろうと、官僚さんと話に行ったのだろうが、随分と拍子抜けしている、ということのようだ。法務省は「判断を下す立場にない」と言っても、日本政府が中国との外交文書としてかわしている「一つの中国」論の「建前」を踏襲するなら、台湾を国家と認めていないということなのだから、
という表現自体が「矛盾」なのだから、「二重国籍」とは呼べない、ということになるわけで、じゃあ、これはなんなのかということになるけれど、いずれにしろ、日本は台湾との外交関係を大事にしたいということもあって、「台湾を国家と認めていない」なんていうことを、わざわざ口に出して言いたくないし、そういう「判断」自体をしたくない。
ようするにどういうことかというと、蓮舫さんが「二重国籍」かどうかなんか
- 以上
に日本にとって、中国や台湾との「外交」の「波風を立てない」ことが、どれだけ「国益」にかなうか、ということなのである。
おそらくこの、蓮舫さん「二重国籍?」論争はこれから、急速に収束していくであろう。なぜなら、今、蓮舫さんのこの問題で騒いでいる連中の言っていることを
という主張と同じくらいに(私はこういうことを言っている連中を「子どもバカ」と呼んでいるがw)、
- 子どもだって「はっきり」分かるくらいに
分かりやすくすべきだ、という主張が、どう考えても、中国と台湾の間にある、さまざまな「紛争の種」に、わざわざ「火中の栗を拾う」行為であることがはっきりしてくるからだ。
この一連の「炎上」は、紅衛兵に似ている。
もう一度整理すると、今回の問題は、蓮舫さんのお父さんが台湾の人であったがゆえの「国籍」に関する疑惑から始まった。しかし、一つだけはっきりしていたことは、日本の政治的な立場としては、台湾を国と公には認めていないのだから(というか、それを日本政府は、あらたまって言いたくない)、最初から「二重国籍」として、扱えなかった。しかし、そうであるとするなら、一体、どこに、この振り上げた拳を落とせばいいのか、ということになるであろう。
そこで、まったく「関係のない」話題が、ここで急に、浮上してきた。政治家や総理大臣は、二重国籍者はなれないように、法律を改正しよう、という。しかし、何度も言っているように、蓮舫さんは二重国籍でなかった(日本政府の立場としては、そう言わざるをえない)わけであるのに、なんでそういう話が急に浮上してくるのか、というわけである。
って、まったく、ロジカルじゃないでしょ。ここで急に、湧き出してきた「二重国籍者の政治家・総理大臣の禁止法」がなぜダメなのかは、よく考えてみてください。ある法律を作るということは、それがないことによって、だれかが困っていからです。さて。蓮舫さんは関係なかったわけです。じゃあ、そのままでいいでしょう。なにか、具体的に困る場面が現れたら考える。なぜ、そうしなければならないか。それは、これが一種の
- ヤクザの当たり行為
だからです。なんの関係もないことにイチャモンをつけて、まったく関係のない法律を作らせる。なんの合理的な裏付けもないから、それが導きだすことになる「結果」も、不分明です。
「二重国籍者の政治家・総理大臣の禁止法」を作るということは、どういうことでしょうか? 必然的に、上記の中国と台湾の間にある、さまざまな「紛争の種」に、どうしても「言及」せずにはいられません。そういったことを「議論」しないわけにはいかなくなります。
- こういう事態になる
わけです。大事なポイントは、
- 「二重国籍者の政治家・総理大臣の禁止法」を作る
ことと
- それを作る作業を行うことによって、中国と台湾の間にある、さまざまな「紛争の種」に首をつっこむことになる
ことのどちらが、「日本の国益」にとって重要なのか、が問われているわけです。圧倒的に後者の方が日本の国益にとって重要なわけで、早い話が、もう一瞬でも早く、この話題を日本はやらないということが、国益にかなう、というわけなんです。
さて。
ここで、もう少し違った角度から、この問題を考えてみたい。
例えば、東京オリンピックの誘致に賄賂が使われたのではないかということで、フランス警察が捜査をしているということで、日本のオリンピック委員会は第三者委員会を作りましたが、その報告書はまったくひどい作文で、多くの有識者から酷評をされている。問題はなんで、この第三者委員会は、こういった
- ガラクタ
を作るのか、というわけです。こんなゴミクズを作って平気な顔をしているような連中は、むしろ、日本のオリンピック委員会の品性を下げるという意味で、逆効果なわけです。こんなゴミクズを作るぐらいなら、こんな第三者委員会など、なかった方がよっぽどよかったわけです。こういうゴミクズ第三者委員会を作ったがゆえに、もしも東京オリンピックを辞退するところにまで追い詰められたとしましょう。
- こんな第三者委員会、なかった方がよかったね
となる。大事なポイントは、「御用学者の第三者委員会」は、依頼主の「国益を損ねる」結果になる、というところなのである。
例えば、もんじゅの廃炉が話題になっているが、御用学者たちは絶対、もんじゅ維持派だったわけでしょう。ところが、政府が方針転換をして、もんじゅの廃炉に動き出している。そりゃ、そうだろう。何十年も、ただの金食い虫だったのだから。
しかし、そうなったときになって、あの「御用学者」たちの、もんじゅ維持のためなら、どんな悪でもやってやる、といった態度はなんだったのか、が問われるわけです。
他方において、どうでしょう。
3・11の津波によって、東北の海ぞいの地域は多くの死者をだしました。それは悲しい出来事だったわけですが、これは逃れられない「運命」なのでしょうか?
津波に対しては、まず、海ぞいに人が住まなければいい、という考えがありますが、これは人間の性(さが)を考えると、あまり現実的ではないように思われます。海ぞいの平野部は、それなりに土地も肥沃で、需要があるように思われます(海に近いという利点は、魅力的でしょう)。
それに対して、今までの一般的な津波対策は「防波堤」の一択だったわけです。しかし、この土木工事には欠点があります。一つは、海の環境を破壊する、ということと、堤防方式は、結果として
の二択になってしまう、ということです。だとするなら、私たちが求める「答え」はこの欠点の解決ということになるでしょう。
下記の竹中工務店のデザインする、「減波」という考えの特徴は、完全な津波の「ブロック」というより、その勢いを弱める、というところに主眼があり、なおかつ、その「建造物」が、それほど海の生態系に影響しない、ところにある。
ここで、最初の映画の話に戻るなら、一つ一つのロジックをおろそかにしない、というわけである。徹底的に、論理的に考える。むしろ、そうやったらか、さまざまな問題の解決策が見えてくるし、その逆ではない、というわけである...。