『聲の形・公式ファンブック』

アニメ「聲の形」を映画館で見た印象は、私はこの段階で、原作は第1巻をさらっと見ていたくらいだったこともあり、大変におもしろく見させてもらった。京アニの作品であり、よくできていたと思う。映画を見た後にすぐに、原作の漫画を見させてもらったが、映画としては、原作の意図をよく理解した、全体的にはよくできた作品だったように思う。
しかし、である。
掲題のファンブックというのを見ると、ようするに、この作品は以下の3期に渡って構想されていた、ということが分かる。

掲題の本には上記の二作品が収録されている。その中でも興味深いのが、最初のもので、ここでは西宮硝子は次のように説明されている。

俺達は西宮硝子を嫌っていた
ろくに喋れないくせに授業中よく手を挙げては授業をストップさせる
そのくせ成績はいつも上位
背伸びした態度それが俺達には気にくわなかった

しかし、上記の引用の個所は二つの違和感を覚える。まず一つは、この引用では西宮への「いじめ」は石田の感覚としては「俺達」として把握されていることである。つまり、自分を特権的な地位に置いていない。次に、西宮は「成績が上位」だと、わざわざ強調していることであろう(そのことは、確かに彼女への「いじめ」が苛烈を極めていることは確かではあっても、彼女そのものの価値を彼女自身が卑下しなければならない、とまではなっていない、ということを示唆している)。
この場面の直前で、担任は西宮と筆談での面談をしている最中に、彼女が聞こえていないことを前提にして「迷惑なんだよ」と言うのを、石田たちが立ち聞きする場面がある。ここで担任は彼女が教室にいることで、授業が遅れ、他の生徒の邪魔になっていることを暗に示唆している。ようするに、彼女に聾学校へ行ってくれ、と明確にしている。
確かに、石田はその後、西宮への暴力を理由に担任を中心にして、クラスの全員から袋叩きにあい、それ以降、石田も西宮と同じくクラスで「いじめ」の対象となっていく(もちろん、クラスの全員が担任の「意図」を汲んで、自分をスケープゴートにしようとした、石田から見たら、裏切られた、といった側面があることは確かなわけであるが)。
西宮が転校する場面で、担任は「笑い」が止まらなくなる。それを石田は、大人である、この担任こそが彼女を学校から追い出した、ということなのではないか、と解釈する。つまり、こういった大人への「嫌悪感」を表明する。

こんな人間になりたくない

ようするに、どういうことか。最初の漫画賞の段階では、この作品は「石田」問題ではなかった。明らかに、クラスの子どもたちを「操作」している担任によって、西宮硝子は「誘導」されて、転校させられた、といった印象をまぬがれない。
本来の作品のメッセージとしては、こういった「大人」との

  • 対決

が主題としてあったはずなのだが、どこからか、その主題は消えていく。それはなぜなのだろう?
西宮への「いじめ」が深刻化していく過程で、間違いなく、担任の「悪意」を感じる。担任は、暗に、クラスの全員を西宮を「いじめ」る方向へ誘導している。そうすることで、西宮が「転校」を言い出すのを少しでも早めようとしている。このような観点に立ったとき、むしろ、すべての悪の根源は、担任の悪魔的な態度ということになるであろう。
なぜ、クラスの西宮への「いじめ」は止められなかったのか。これだけ長期化したことの原因には、間違いなく、早い段階からそういったクラスの雰囲気を知っていながら

  • 見て見なかったことにしていた

担任の悪魔的な行動が裏にあることが分かる。つまり、この作品は本当に「子どもは悪いのか」が疑わしいわけである。
本来であるなら、この作品の「解決」としては、その小学校の段階で、聴覚障害の子どもが健常者たちと「一緒」に授業を受けるという段階で、どのようなマニュアルが必要とされていたのかが判然としなければならない。そうでなければ、なんの解決にもならない。ところがなぜか、この作品はその課題には一切取り組むことなく、すでに高校生にまでなった彼らが、まるでそれらを

  • 自分一人の問題

であるかのように、いつまでもその「罪」に悩まされ続けている、という描き方になっている。
例えば、こんなことを思うわけである。これらのクラスを見ても、まあ、40人学級のように、一つのクラスには大量の子どもが詰め込まれている。もしもこれが、20人学級、10人学級で、先生がいくらでも西宮の面倒を見ていられたら、どうだったであろうか?
こういった想定は空想的であろうか? しかし、私にどうも理解できないのは、この

  • 残酷

な子どもがどうあればよかったのかが、なぜ示されないのか、なのである。これは「子どもの問題」なのだろうか? 子どもに「罪」があるのだろうか? というか、教育はいつまでも、子どもの側に「罪」をおしつけて、「教えている」と自称している教師が、なんの責任も引き受けないシステムにしておいていいのだろうか?
実際、教師とは、そもそも大学で、自分の専門を学んでいる連中に過ぎない。まったく、子どもたちの集団生活を学んできた存在ではない。そんな連中が、そもそも子どもの「面倒」を見るということ自体に無理があるんじゃないだろうか。
私にはどうも、学校という組織のこういった「縦割り」の管理手法が理解できないわけである...。