アニメ「聲の形」における「自殺」

うーん。
アニメ「聲の形」は連載バージョンの原作における「可能性の中心」を考察したということでは、なかなか難しい内容になっていることは間違いない。
誰かもネットで書いていたが、早い話が、石田が硝子に会いに行くというのは、ある意味での「ストーカー行為」なんじゃないのか、と言われたら、だれも否定できないんじゃないだろうか。つまり、普通に考えると、この場面は硝子の「恐怖」が描かれなければならない。でも、話の展開としてはそうなっていないんだよねw
そこが難しい。ようするに、この作品は「石田の目線」で描かれているから、まあ、石田中心にストーリーは回っている、ということなのか。
石田は、硝子が転校していったあの小学校の頃から、「ずっと」いじめられていて、クラスで孤立していて、友達がいなくて、こんな状態で生きていてもしょうがないと思い、

  • 自殺

を決断したところから、ストーリーは始まっている。だから、硝子に会いに行ったというより、会って、用事が済んだら、そのまま「自殺」するつもりでいた。しかし、なぜか自殺をしなかった。なぜ自殺をしなかったのかは、あまり描いていないわけである。
実はそこは、原作を読んでもよく分からない。
しかし、この作品を見ていて、一つだけはっきりしていることは、石田と硝子の二人だけは、ずっと

  • 自殺

について考えている、ということなんじゃないのか。つまり、この二人だけ「いじめ」を受けているんですよね。「いじめ」の被害者側に立たされた「経験」をしている。つまり、言いたいことは、

  • いじめ --> 自殺

という関係が、非常に意識されている。大事なことは、この二人だけが「自殺」を本気で考えて、自分はいつか「自殺」する、しかも、かなり近い時期に、と思って生きている、ということなんじゃないか。
原作の三つに共通して描かれているシーンとして、ずっと「いじめ」られていた硝子が、この新たに「いじめ」られ始めている「石田」に、なにかを伝えようとしている場面なんですよね。自分が「いじめ」られる対象であった「だけ」の間は、硝子はなにも言い返さなく、いつも「にこにこ」していた彼女なのに、この新たに

  • 自分と同じ

ように、「いじめ」られ始めた石田に対して、彼女は「何か」を伝えようとする。とっくみあいのケンカのような形になるわけだけど、おそらくここに、硝子の

  • 内世界

がどういうものであったのかのヒントがある。
作者も書いていたように、硝子の内世界において、自分が「いじめ」られるのには、「理由」がある、と思っている。それは、「自分が悪いから」と本気で思っている。彼女はずっと、自分の罪を引き受けるための自殺を考えているわけである。
例えば、彼女の父親は離婚をしたわけだけど、その理由は母親が「硝子」を産んだから、という場面が(原作の方ではあるが)描かれる。また、硝子の母親は、最後まで、手話を学ばなかったのは、硝子がちゃんと話せるように「矯正」することを続けたからであり、そのインプリケーションとして、母親の願いを叶えられない硝子が自らを「責めた」ことは(おそらく、母親による硝子への、かなりのDVもあったのであろう)、彼女にとって、日常茶飯事のことだったのであろう。
硝子はそういった延長で、学校での「いじめ」も考えている。だから、自分を「責める」。しかし、そうであるだけに、石田が「いじめ」られたことに、彼女は「理不尽」を感じる。つまり、逆説的であるが、石田が「いじめ」られたのは、

  • 自分のせい

と彼女は思っている。彼女は、石田を「かわいそう」と思っているわけである。
つまり、ここで作者が明確に描こうとしているのが、

  • 「いじめ」られたのは「自分が悪い」から

という命題を本気で信じようとする、ということなのではないか。
わるいけど、この作品。まったく「恋愛」じゃないんだよね。石田は、硝子に対して、恋愛感情を意識していない。それは、ある意味で、徹底している、と言うこともできる。石田がずっと考えていることは、自分がいつ自殺するかということであって、石田は硝子を自分が「いじめ」たことの「罪」をずっと意識している。石田は「やさしい」のではなく、自分の過去の「罪」に対して、常に、

  • 何かをしなければならない

という「義務感」にかられている。
うーん。
この作品を連載形式にする構想が生まれた段階において、ある意味において、石田と硝子が考えている「自殺」の問題になんらかの「決着」を着けなければならない、というのはあったと思う。しかし、その場合に、どうしても、もう一つの視点を描かなければならない、と思ったのではないか。
おそらくそれが、植野直花(うえのなおか)だったのではないか。はっきり言って、彼女は「イノセント」だ。彼女は、あの小学校の頃の、硝子を「いじめ」ていた時となにも変わっていない。むしろ、石田に、また、あの頃のように、硝子を「いじめ」ようと誘うくらいだ。しかし、一つだけ変わっているのが、彼女が石田に恋をしていることを意識し始めていることであろう。
植野は、実際に、硝子に対して、あの頃と、まったく変わらない態度で接している。実際、今も「いじめ」ていると言っても間違っていない。植野が硝子に言うのは、

  • 全部、お前のせいだ

というわけである。なぜ、石田が「いじめ」られたのか。硝子がそうだからじゃないか。植野はずっと、硝子を責め続ける。石田が苦しんできたことを分かっているだけに、硝子を責めずにいられない。
ところが、である。
「それ」こそが、硝子が「言ってほしかった」ことなわけであろう。彼女はずっと、自分が悪いと思ってきた。そのまさに、「真実」を植野が自分に知らせようとしてくれている。だから、硝子は植野の話す言葉を聞こうとする。
ここには「ねじれ」た関係がある。
言うまでもなく、植野は「だめ」な奴である。どう考えても、こいつだって、石田と一緒になって硝子を「いじめ」ていたわけであって、石田流に言わせれば「自分が相手を責める資格なんてない」となるわけである。しかし、作者はどうしても、植野をこの作品に登場させないわけにはいかなかった。

  • 石田 ... 自殺を考えている
  • 硝子 ... 自殺を考えている
  • 植野 ... 石田を「救う」ために、硝子に「憎しみ」を向ける

つまり、植野という外部のトリガーなしには、石田と硝子の「自殺ループ」から抜け出せなかった。こういった「関係」の中において、始めて、なんらかの「未来」を考えられた、ということなのではないか...。