アニメ「聲の形」における規範的存在

アニメ「聲の形」の原作となった、全7巻の漫画版は、一つだけはっきりとしていることがある。それは、完璧な人間が存在しない、ということである。
全員がどこかしらの「欠点」をもっている。誰も「超越的」な視点から語っていないのだ。
みんな、どこかしらに「だめ」なところがあり、自分の身の回りのことを近視眼的にしか見られない。ここが大事なポイントで、どこにも

  • 規範的

な存在を想定していないことなのだと思う。
石田にしても、彼の回りには、彼に適切にアドバイスのできる存在がいない。母親も彼の置かれている情況に適切に振舞えるほど、日々の仕事から余裕があるわけでもない。小学校の頃の担任はどこか官僚的で人格崩壊しているし、なにより、小学校からずっと「いじめ」に悩んでいる時点で、回りがいかに「残酷」かを、よく示している。
硝子にしても、彼女は「天使ちゃん」でもなんでもない。イノセントで「優しい」のではなく、いや、もっと悪く、「自分が悪い」と思っているから、他人に親切にすることが、自分の悪の「代償」と思い込んでいる。つまり、少しも主体的でない。父親は彼女の病気を理由にして離婚をするような障害差別主義者だし、母親はどこかしらDVを臭わせるスパルタ教育者だし、妹は幼い心で、ちょっと人格的に無理しすぎているし。
ようするに、この「聲の形」という作品は、

  • どうして硝子の「自殺」を、だれも止められなかったのか?

こそが主題のはずなのだ。はっきり言って、石田が彼女を「救った」かどうかなんて、なんの意味もない。それは結果論にすぎない。結果がなんだろうと、なぜ彼女が自殺を実行したのか、というか、なぜ誰も彼女の自殺を事前に止められなかったのか、こそが、この作品の全ての答えでなければならない。
それはなぜか?
だれも彼女が「本当は何を考えていたのか」に気付けなかったから、であろう。
みんな、彼女とずっと一緒に行動をしているのに、本当は彼女が何を考えていたのかに、正面から取り組もうとしない。
これは、よく考えてみると、驚くべきことなのではないだろうか。
例えば、植野は硝子から手紙をもらうわけだが、なぜか彼女はその手紙の「返事」を、手紙で書こうとしない。そうせず、彼女が自殺未遂をした後に、彼女を糾弾する「ネタ」として、その手紙の内容を使う。
なぜ、植野は、手紙に対して、手紙で応答するということができないのか?
この作品は、そういう意味では、非常に後味の悪い作品になっている。植野の態度は、世の中の自殺を「決断」した人たちに対して、

  • 自殺を決断したこと自体が、最大の悪

として、糾弾している印象をぬぐえない。自殺を決断した人に向かって、その人に自殺を決断させた相手を糾弾するのではなく、決断した人の方が悪いんだ、と、まるで言っているような印象を受ける。
ここのところは重要なポイントで、一見すると、この作品の構成上、もしも石田も硝子も「規範的存在」でないとするなら、植野こそがそうなのではないのかと、少なくとも、

  • 作者の意図

はそこにあるのではないかと、解釈する人がいたとしても、少しもおかしくない。つまり、作者は自分の「主張」を植野に語らせたんじゃないのか、と。しかし、植野が「規範的存在」だと考えることは、あまりにもおかしくないだろうか。少なくとも、表面的には植野こそが、彼女の自殺のトリガーとなっていることは否定できないわけであろう。

  • なぜ、だれも硝子の自殺の<決断>を止められなかったのか?

どうして、だれも彼女が「本当に思っていること」に気付けなかったのか。おそらく、その「気付けない」ことと、聴覚障害者であることが深く結びつけられて、描かれているのであろう。
この作品を丁寧に見ていくと、硝子の自殺未遂の直前にあるのが、彼女のおばあちゃんの葬式なんですよね。おそらく、このことは、とても示唆的になっていて、つまり、この作品世界の中で、唯一の

  • 規範的存在

は、この「おばあちゃん」だったんだ、と解釈できると思うわけです。もっと言えば、この作品世界の中で、唯一「まとも」なのは、彼女だった、と。だからこそ、硝子の唯一の心の支えを失った今こそ、自殺を決断するときだったと。たとえば、硝子の母親がかたくなに手話の勉強をすることを拒んだのに対して、おばあちゃんは近所付き合いを止めてまで、手話を勉強していたことが示唆されているわけで、本当はこの作品世界の全体を影で支えていた存在として、このおばあちゃんの存在がクローズアップされてくる。
なぜ作者は、硝子とおばあちゃんの「日常」を描かなかったのだろうか?
おそらく、次のような関係になっているのではないか。まず、おばあちゃんの特徴は、確かに彼女は精神的な「規範的存在」ではあるが、肉体的には、無力である。その「対称」が、硝子が受ける「いじめ」にある。つまり、おばあちゃんでは、この「肉体」の暴力を防げない。それに対して、石田は確かに精神的には、ダウナーで、こっちもいつ自殺しても不思議じゃない状態なんだけど、彼には、おばあちゃんにはない「肉体」の強靭さ、

  • 若さ

をもっている。だからこそ、硝子の飛び降り自殺のすんでのところで、「救えた」のだと...。