習慣という「ミーム」

例えば、どうもピーター・シンガーの言う「功利主義」は気持ち悪い。それは、彼が非倫理的だからというより、なんらかの「べき論」を、彼はどうしても「功利主義」で説明しないと気がすまない。もっと言えば、あらゆる道徳の源泉が「功利主義」にあるのだ、ということが証明できさえすれば、あとはどうでもいい、ということなのであろう。
なぜ功利主義は問題含みなのか? それは、功利主義こそが、近代経済学そのものだから、と言うしかない。近代経済学功利主義によって説明される。近代経済学功利主義によって「解釈」されるのだ。
それは、ロールズの社会契約論や、ノージックリバタリアニズムについてもそうで、基本的にこれらは、功利主義の枠組みを踏襲している。
功利主義の問題とはなんだろう? それは、資本主義の問題と呼んでもいいが、ようするに、「所有論」なのだ。彼らは全てを所有論で説明する。しかし、それはあまりにも

  • 強引

なのではないか? というか、そう疑わないのだろうか?

しかしながら、言うまでもなく、このような近代社会契約論もまた、「緩衝材で覆われた自己」と不可分なものであった。ジョン・ロックを参照するまでもなく、所有権の理論は「個人が自らの身体を自己所有する」という理解と不可分であった。自分の体は自分のものであって、他の誰のものでもない。それゆえ、自分の体は自分の好きなように処分できる。さらに、自分の体を使った労働によって生産したものも、自分の所有物となる。このような考え方こそが、所有権の理論を支えたのである。
ここにあるのは、自分の精神が自分の身体を所有し、排他的な処分権をもつという考え方である。さらに、その前提にあるのは、外部からの影響を断ち、自分の内面へと閉じこもった自己が、自らの身体を足がかりに、自分の外にあるものを所有の対象として捉え直していこうという志向であった。

民主主義のつくり方 (筑摩選書)

民主主義のつくり方 (筑摩選書)

もしも私の「魂」が私の身体を「所有」しているなら、私はこの身体を使って、さまざまな「商品」を所有する、ということになる。しかし、私の身体を私の魂が「所有」しているという表現は、素朴に考えて、あまりにも

  • 異常

ではないだろうか。私の魂という呼び方がそもそも、異様だし、もしもそういった表現を使うにしても、私の魂と私の身体を「分け」てなにかを言うことは、あまりにも異様な印象を免れない。もしも私が交通事故によって「脳死状態」になったとして、私の魂が、それらの脳死状態になった私の身体の臓器を、

  • 売る

のだろうか? 私の魂は、私の所有物を「破壊」するような意味で、私の「身体」を壊すことで「自殺」をするのだろうか。
そもそもなぜ「民主主義」は、このように「普及」してきたのであろう?
そこにはおそらく、アメリ南北戦争の悲惨な殺し合いがあったと考えられる。普通に人間が「功利的」に行動をすると、

  • 戦争

になる。いや、戦争になるだけではなく、アメリ南北戦争のように、人口のほとんどが死んでしまうような、悲惨な絶滅になるわけである。いや、結果としてそうだったから、民主主義が一定の人々の行動を「抑止」してきた、と考えるしかないのではないか。
それは、3・11における、人々の助け合いにも現れていた。
例えば、日本国家は明治政府によって作られたと言っていいと思うが、確かに、この作成段階においては、国家を立ち上げるための「官僚」の働きは非常に大きな意味をもったのであろう。
ところが、「開発」フェーズから、「保守」フェーズに入るに従って、官僚たちは実は、「やることがなくなる」わけである。なぜなら、この社会は「民主主義」社会なのだから、一定の枠組みさえできれば、あとは、国民が勝手にこれらをいいように改善していくのだから。そうすると、エリートはやることがなくなる。すると、エリートは

  • 国民を人質にして

でも、自分たちが「ヒーロー」であることを証明したがるようになる。

ここでヘイが指摘するのは、政治学における公共選択理論である。これはやや意外な真犯人であろう。というのも、公共選択理論とは純然たる学問的手法であり、狭い研究者の世界を越えて、人々の政治への見方を変化させるほどの影響力をもったとは考えにくいからである。
とはいえ、ヘイが問題にしているのは、公共選択理論そのものというより、その背景にあるような思考法の浸透であろう。この思考法によれば、政治家や公務員は、他の個人と同様、費用と効果を計算し、自己利益を合理的に最大化しようとする存在とみなされる。そのようにみることで、あらゆる政治現象を説明するこおができるし、新たな制度作りも可能となる。
しかしながら、ヘイにとって問題なのは、このような思考法が浸透することによって、いよいよ古典的な政治観----政治とは公共的な価値を実現するものだとするような----が掘り崩されてしまうことにある。言い換えれば、公共選択理論自己実現的なのである。
民主主義のつくり方 (筑摩選書)

私たちにとって国家が不要なのではなく、

  • 官僚=選良=エリート

が次第に「いらなくなる」というところに、民主主義のポイントがある。
エリートは彼らは「役に立たない」から不要になるのではなく、大衆がその仕事をできるから不要になる。そういう意味では、エリートはより「ニッチ」な世界で、才能を試せるようになる、と考えることもできる。
ここで私は、功利主義的な、「所有論」をとらない、より動的な人間社会を構想するとはどういうことなのかを考えてみたい。私の魂と身体は決して分けられないし、私は脳死に反対だし、臓器移植に反対だ。それは、功利主義的な「共感」の論理を疑う、ということを意味している。
例えば、リチャード・ドーキンスは「利己的な遺伝子」において、文化の世界における「遺伝子=ヴィークル」を考え、それを

と呼んだわけだが、おそらく、アメリカのプラグマティストは、その「ミーム」を文字列上に宿るものにとどまらず、人間の

  • 習慣

の中に見出したのではないか、と考えられる。

本書では、民主主義の新たなオルタナティブを模索して、プラグマティズムの習慣論に着目してきた。そこでは習慣の個人化を前提に、むしろ習慣を通じて人と人がつながっていく可能性が示された。その場合、人と人とは何らかの共通の属性をもつわけではない。例えば、前もって共通の価値観をもつことは必ずしも不可欠ではない。
にもかかわらず、一人ひとりの個人の信念は、やがて習慣というかたちで定着する。そのような習慣は、社会的なコミュニケーションを介して、他の人々へ伝播する。人は他者の習慣を、意識的・無意識的に模倣することで、結果として、その信念を共有するのである。しかし、それはあくまで結果論であり、あらかじめ何らかの価値観の共有が前提されているわけではない。
民主主義のつくり方 (筑摩選書)

習慣は一種の「ミーム」となって、人間社会を伝播していく。私がだれかを「共感」するというのは、私が相手の「慣習」というミームに感染したことによって、

  • 同じ体験をした

ことに関係している。大事なポイントは、こういった関係を「所有論」のような形で、どこかで区切りを入れて「管理」できない、というところにある。国家とは基本的に功利主義のことであり、どうしても、ここに分割線がないわけにはいかない。なんとしても、この「間」に線を引こうとする。しかし、そんなことは不可能なのだ。
私たちが例えば、3・11において、だれかの親切に「恩」を感じたとして、それをなにかの「所有権」のようなもので、国家が管理することはできない。そもそも、このように人間は他の人間と「分割できない」。そんなふうにできていないから「人<間>」と呼ぶのだ...。