市野川容孝「反ニーチェ」

今回の雑誌「現代思想」の特集「相模原障害者殺傷事件」については、まだ最後まで読み通せてはいないが、どの記事も読みごたえがあり、考えさせられる。
例えば、蓮舫さんの二重国籍問題があったとき、「蓮舫が自分の戸籍を公開すればいいじゃねえか、政治家は公人なんだから、そんなの当たり前だろ」みたいなことを言っている人がいて、恐しいな、と思ったわけである。
戸籍謄本というのは言うまでもなく、自分もそうだが、家族のさまざまな情報が載っている。こういった個人情報をどんな事情があろうと、公開しなければならないなんていうことがあっていいはずがあるだろうか。
例えば、あなたが被差別部落の出身だったとして、なぜ、それを公の見ている前で、その個人情報をさらさなければならないのか。
そもそも、戸籍制度自体がほとんど日本くらいにしか存在しない、かなり深刻に人種差別的な色彩の大きな制度であるに加えて、それの公開を強いられるなどということがありうるだろうか。
今、国会では、おおさか維新の会が、国会議員の二重国籍禁止法案を提出するそうであるが、これによって、国会議員は全員、国民の自らの「戸籍謄本」を公開しなければならない、となるのであろう。というか、そういったネトウヨたちが、国会議員ひとりひとりに「戸籍謄本を公開しろ」と糾弾を始めることになる。
そうして、自らの「家系」を辿って、一人でも、「外国人」がいたら、糾弾を始める。お前は「純粋」な日本人じゃない、と。いや。そんなもんですむわけがないだろう。この国会議員は被差別部落の出身だ、と言って、落選運動を始める。
私は優秀なサラリーマンほど、深刻な人種差別主義者なのだろう、と思っている。というのは、サラリーマンとは、近代経済学を血肉にしている人だということであり、つまりは、功利主義者だからだ。

なぜか? わたしには理由がわかる。高齢者は自分を障害者とは思っていないからだ。それどころか、障害者と自分を区別して、一緒にしないでくれ、と思っているからだ。脳血管障害の後遺症が固定して、周囲が障害者手帳を取得するように勧めても、それに頑強に抵抗するのは高齢者自身である。
なぜか? その理由もわかっている。高齢者自身が、そうでなかったときに、障害者差別をしてきたからだ。自分が差別してきた当の存在に、自分自身がなることを認められないからだ。
上野千鶴子「障害と高齢の狭間から」)

優秀なサラリーマンは、自分が「価値」があるから、自分が多くの冨を企業にもたらしたから、自分に自信をもっている。つまり、そういう意味で、彼らは自分より企業に貢献できない人たちを軽蔑しているのだ。
自分は国家に多くの貢献ができるから、生きる価値がある。だから、そうでない他者を馬鹿にしている。まさに、エリート主義だ。国家にとって、

  • 選良

以外の全ての人間は「邪魔」なのだ。たんなる、穀潰しであり、税金の無駄使い。国家になんの貢献もできない国民は、生きる価値がない。まあ、相模原事件の植松そのものなわけだ。

植松容疑者の「障害者に生きる価値はない」という「思想」は、要するに「社会の役に立たない存在」の全否定である。そして後者については、きわめて多くの日本人に共有された発想であることはすでに述べた。生活保護バッシング、ニートやひきこもり叩きはここに起因する。ひきこもり当事者が、しばしば「自分には生きる価値がない」と口にするのも同根である。
ここには共通の誤謬がある。「人間の生の価値判断が可能である」とする誤謬だ。この「思想」は優生思想に直結している。自明の前提を確認しておくが、「生」こそがあらゆる価値判断の基盤であり、それゆえ「生」そのものの価値判断は原理的に不可能である。それでも強いて判断するなら「すべての生には平等に価値がある」と考えるほかはない。
この誤謬と明白に関連するのが「権利と義務はバーター」説だ。義務を果たさずに権利のみを主張するなという、日本社会でのみ流通している奇妙な常識は、世界標準である「天賦人権説」からすると誤りである。人権は、その個人がなにをなしたかいなかにかかわらず平等に分配されている。「権利には義務がともなう」という場合の「義務」とは、個人の権利を国家が保障する義務のことだ。
斎藤環「「日本教」的NIMBYSMから遠く離れて」)

しかしね。これに似たようなことを言っている連中なんて、たくさんいるんじゃないだろうか。自分のプライバシーを守りたいなんて、貧乏人にそんな権利があるわけねえだろ。国家に守ってもらいたいなら、臓器を売って、

  • バーター

で権利を獲得しろ、とかw 恐しいね、「ゲンロン」「シソウ」しらんけど。
だいたい、哲学って、こんなことばかり言ってきたんじゃないのか。「生きる価値のない人間」とか。

この本に収められたニーチェの言葉に限って言えば、白取氏の言うとおりだとお思う。しかし、生を肯定するこの「明るいニーチェ」の本には、ある意味で当然だが、ニーチェの次のような言葉は決して出てこない。

人間愛のいま一つの命令。----子どもを産むことが一つの犯罪になりかねない場合がある。強度の慢性疾患や神経衰弱症にかかっている者の場合である。そのときにはどうしたらよいのか?....社会(ゲゼルシャフト)は、生の大受託者として、生自身に対して生のあらゆる失敗の責任を負うべきであり、またそれを贖うべきである。したがってそれを阻止すべきである。しかもそのうえ、血統、地位、教育程度を考慮することなく、最も冷酷な強制措置、自由の剥奪、事情によっては去勢をも、用意しておくことが許されている。----「汝殺すなかれ!」という聖書の禁令は、「汝ら生殖することなかれ!」とのデカダンに対する生の禁令の厳粛さにくらべれば、子どもじみている....生自身は、有機体の健康な部分と変質した部分との間のいかなる連帯性をも、いかなる「平等権」をも、みとめることはない。変質した部分は切断されなければならないのである----さもなければ全体が徹底的に死滅する。----デカダンたちへの同情、不出来な者どもにみとめられる平等権----これは最も深い非道徳性であり、道徳としての反自然そのものである!(原佑訳『力への意志ちくま学芸文庫、下、二五二頁)

そもそも、功利主義って、人間の「平等」を認めないんだから、それって、単純に、

  • 差別主義

なわけでしょう。なんで、それを認めないんだろう。功利主義は、「平等に扱わなくてもいい人間がいる」ということを言っているわけでしょう。ようするに、

なのだ。

しかし、シンガーは、こうした効用にもとづく分配の対象範囲をエンゲルハートと同様、「人格(パーソン)」に限定し、そして「生きるに値しない生命」という概念を提示する。つまり、生きるに値する障害者とそうでない障害者がいるというのだ。『実践の倫理』の第一版(一九七九年)で、シンガーは次のように述べた。「ナチスは身の毛のよだつような犯罪を犯した。しかし、だからと言って、ナチスのしたことがすべてそのようなものだったというわけではない。単にナチスがしたからという理由だけで、安楽死を弾劾することはできない。......大量殺人を犯すことのない正常な人びとからナチスを区別するのは<生きるに値しない生命がある>という立場ではない」(山内友三郎・塚崎智監訳、昭和堂、一九九一年、二〇四頁)。
ピーター・シンガーは、ユダヤ人のその祖父母のうち三人が強制収容所で亡くなっている。その彼がレイシストであるわけはない。しかし、「生きるに値しない生命」という考えは彼とナチによって共有されている。ドイツでの一件を経て、シンガーは『実践の倫理』ら右の一節の大半を削除したが、「大量殺人を犯すことのない正常な人びとからナチスを区別するのは<生きるにあたい しない生命がある(some lives are not worth living)>という立場ではない」という一文は、二〇一一年の第三版でもそのままである。そして、「生きるに値しない生命がある」という考えは、それが具体的に誰を指すかという点で違いがありうるとしても、今回の事件の容疑者が共有しているものでもあるだろう。私は、人間が人間に対して「生きるに値しない生命」という概念を用いてはならないと考える。

そういえば、ピーター・シンガーの好きな哲学者って多いよね。ことあるたびに、ピーター・シンガーとかリチャード・ローティとか引用する奴。そういえば、小林よしのりがブログで「安楽死」を肯定する記事を書いたのって、だれの影響なんだろうね。
功利主義の主張を考えれば、「安楽死」を肯定するのは分かりきっているんじゃないだろうか。だって、全体の幸福の量を増やすことが「目的」なんでしょ。だったら、

  • 生きていても、なんのいいこともない

と言っている人は、さっさと死んでもらった方が簡単に、「全体の幸福」の量を増やせそうだもんねw

長崎大学で『さようならPC』の上映会があった際、横塚晃一は、参加者の一人から出された「愛と正義を否定するという行動宣言が理解できない」という意見に対して次のように答えている。

私達は愛という言葉によって押えつけられてきた。例えば障害者がよく殺される。障害児殺しが行なわれれば、すべてそれは親の愛。やっぱり子供にとって生きるより死んだ方が幸せだという一方的な判断がされるわけだよ。それでそれが----殺してやるのが----親の愛である。あるいはやっぱり愛によってつくられたところの施設がいわゆる我々のような障害者を圧迫している。いわゆる愛によって人権が認められねェんだ、という場合が多いわけ(横塚晃一『母よ!殺すな』生活書院、二〇〇七年、一七一頁)。

ようするに、さ。リチャード・ローティの言う「共感」って、母親の子どもに対する「愛情」のことなんだよね。だから、母親は子どもを「殺す」し、それに国民は「同情」するんだよね。「愛」だとか「正義」がうさんくさいのは、親が子どもを殺すことと同値なわけでしょ。
親が子どもを育てるのは、子どもに「共感」しているからなんだよね。ということは、親は子どもに共感できないと「殺す」のだ。そして、社会や国家は、そうやって子どもを殺した親に「同情」する。それは「安楽死」を容認する論理となにも変わらない。
子どもは親に「反して」生きるのであって、子どもが生きるためには、親と戦わなければならない。親は子どもに「あきる」と子どもを殺すし、子どもが「自分にプライドをもてる」なにかでないと殺すしそれは、功利主義が「幸福の最大化」を目指すように、親の「幸福」に子どもが邪魔だと単に、親は「功利主義」的に子どもを殺すのだ。そういう意味で、子どもが親に殺されずに

  • サバイブ

できる社会こそ、重要なのであって、親を憎まさせてもらえない子どもは、いつ親に殺されても不思議じゃない。こういった社会を目指せない時点で、そういった連中は植松容疑者と変わらず、彼と同じように、心の中で、身体障害者を「殺している」のだ...。