「みんなの意見」は案外正しい

掲題は、ジェームズ・スロウィッキーの本の題名であるが、私は多くの日本人がこのことをよく分かっていないんじゃないのか、ということが少し気になっているわけである。
相模原障害者殺害事件にしても、元アナウンサーの長谷川豊による透析患者「死ね」発言にしても、

  • 無駄な人間

がまるでどこかにいるかのような発言は私は非常に問題だと考えている。「無駄な人間」という考え方は、人間には有益な人間と無益な人間の二種類がいて、この無益な人間を「安楽死」させなければ、人間は遺伝的な「劣位」な遺伝子ばかりが、将来に残されて、国家が滅びる、という発想であり、ピーター・シンガーのように、

  • 無駄な人間

安楽死させることが、功利主義的に目指されるべき未来だ、ということになる。
こういった功利主義者が目の敵にするのが、カントである。カントの言う実践理性批判は、ある種の抽象的な「命令」によって、人びとを「ルール」によって縛る。ようするに、功利主義者は、こういった「一般的」な命令をされることを受け入れられないわけだ(なぜなら、ルールに従わなければならないということが、彼らにとっては自由の放棄と同様に思われているから)。
しかし、カントが言ったことはもっと「素朴」なことであって、もしも私たち人間がこれからもこの地球上で生き残っていくとするなら、それはどんな

  • 条件

を満たさなければならないのか、というところにある。つまり、最初からそれは「自由」と関係ない。功利主義者がどんなに「自由」であろうと、それによって地球が滅んだら意味がないよね、というところから考え始めている。
カントはその前提条件から、ある種の「平等」が必然的に満たされなければならない、と言っている。それに対して、ピーター・シンガーを始めとした功利主義者は、そのカントを「嘲笑」する。それはカントが、まるでルールを超越的に導いているように見えるから。ピーター・シンガーにしてみれば、それは欺瞞以外のなにものでもない。彼らが最も大事にするのは、「自由」であって、つまりは、

  • 自分が「やりたい」ことをやれる「自由」

であって、それによって、地球が滅びることなど、どうでもいい。というか、彼らにとってみれば、なぜ地球が滅びてはいけないのかが理解できない。なぜなら、自分の「自由」の範囲で、地球を滅ぼしていいなら、そうである限り、自分が地球を滅ぼすか滅ぼさないかは自分の自由。もちろん、それによって、人類は絶滅するんだけどね。
ここで、カントの主張のより重要なポイントは、彼がある種の「ルール」の正当性を主張するのに、

  • みんな

の存在を前提にしているところにある。カントは「みんなが生き延びる」ために、ある種の「ルール」が必要と言っているのであって、ピーター・シンガーのような

の二種類に分けているわけではない、ということである。なぜカントは、そういった態度を維持できたのだろうか?
ここで、集合知における最も有名な、

を考えてみたい。これは、日本のテレビ番組の名前で、みのもんたが「ファイナル・アンサー」と問い掛けることで有名だ、この番組はアメリカ版というネタ元がある。4択問題を15問連続して正解すると100万ドルをもらえる。ただし、その質問の答えにつまったとき、

  • スタジオの観覧者のアンケート
  • 電話で詳しい人に聞く

ことが選択できる。しかし、この場合、非常に興味深い結果が分かっている。つまり、それぞれの正答率が、

  • スタジオの観覧者のアンケート ... 91%
  • 電話で詳しい人に聞く ... 65%

だった、ということである。確かに、後者は、4択をランダムに選ぶなら25%だと考えるなら、これでもかなり正答率は高いと言うこともできるのかもしれないが、驚くべきは、前者の91%であろう。なんなのだろう、この正答率の高さは?

武田 会場に集まった観覧者は4つのグループに分けられますよね。正解を知っている人たち。2つのうちのどちらかが正解だと知っている人たち。3つのうちどれかが正解だと知っている人(間違っているひとつを知っている人)たち、そして、正解がまったくわからない人たち。
西垣 そう。正解を知らない第二、第三、第四のグループの人たちは、それぞれ2つ、3つ、4つの選択肢からランダムに選んで答える。答える人が多くなればなるほど、間違った選択肢が選ばれる数は均等になっていくんです。
武田 すると、間違った回答は相互に打ち消しあって、あとは、正解を知っている人たちの解答だけが際立って現れてくる。
西垣 それがこの「集合知」の謎解きです。回答者の数が100人くらいだと完全にランダム(等確率)とは言えないかもしれませんが、1万人、10万人と数が増えていけば、大数の法則が成り立つわけです。
一般人の知恵を集めた「集合知」はどこまで信頼できるか 【西垣通氏×武田隆氏対談1】|識者に聞く ソーシャルメディア進化論|ダイヤモンド・オンライン

つまり、4択のそれぞれをランダムに選ぶなら、それぞれ、正答率は25%だが、

  • 正解を知っている人
  • 4つのどれか一つが不正解であることを知っている人

の正答率は25%より上。さらに、不正解それぞれの回答は、確率論の大数の法則から、母数が増えれば増えるほど均一になる。よって、

  • だんだんと正解だけが、突出して突き出て、その他は「低位に均一にならされていく」ので、はっきりとした有意なグラフになる、ということなのだ。

ここにあるのはなんだろう?
まず、一つは

  • 母集団が「多様」なので、たとえ数は少なくとも、さまざまな問題の「専門家」を含むことができる

ということであり、次に

  • 母集団があまりに「大きい」ので、確率論でいう「大数の法則」を仮定できる

ということになる。この結果が非常に興味深いのは、私たちにとって「専門家」とは誰なのか問題に対する一つの回答になっている、と言うこともできるわけである。プラトンは、人間が知っていることは、産まれたときにはすでに知っていた、と言った。なぜなら、もしも最初から知らなければ、それが何なのかを知っていないのだから、それを知ろうにも「それ」がなんだか知らないのだから、知ることはできないのだ、と。これは、

  • そもそも、私たちはある問題の専門家を「探す」ことはできるのか?

と同値であることが分かるであろう。ところが、集合知の場合、その正しい回答をする人が「誰」なのかを知る必要がない。たんに「多様で巨大な集団」があれば、この

  • みんな

が結果として正しい答えを私たちに教えてくれる。
しかし、逆に考えてみるなら、これこそが、カントが語った「実践理性」そのものなわけであろう。人間は功利主義的に振る舞えば、早晩、滅びる。そのことは、私たちに、ある種の「人間の諸条件の平等」を強いる「理由」となっていることを暗示するわけである。
あなたは「無駄な人間」ではない。あなたは「多様」で「巨大」な「みんな」にとって

  • 欠くことのできない

一人であり、だからこそカントは彼らを「平等」に扱うことには、正当な理由がある、と考えたわけである...。