児玉真美『死の自己決定権のゆくえ』

経済学における「成長」の定義である、GDPとは言うまでもなく

  • 国家単位

の数値である。つまり、GDPと国民のだれか一人とは直接は関係ない。だとするなら、国民とは関係なくGDPが増大することがなぜ、ある国民にとっての「成長」となるのかは自明ではない。
このことを最も端的に示すのが、「安楽死」である。国家は国民を殺す、「成長」するために。国家が「成長」するということは、国家が無駄な税金を国民の福祉のために使わない、ということである。

現在、一定の条件下で医師による積極的安楽死または自殺幇助を認める法律があるのは、オランダ(2001年)、ベルギー(2002年)、ルクセンブルク(2009年)の三カ国と、米国のオレゴン州(1997年)、ワシントン州(2008年)、バーモント州(2013年)の6ヶ所。

現在、特に合法化に向けた動きが先鋭化しているのは、カナダ、米国、オーストラリア、ニュージーランド、英国、スコットランドアイルランドなど。2013年2月の報道では、米国で合法化関連法案が審議されているのはコネチカット、バーモント、ニュージャージーカンザス、ハワイ、マサチューセッツの6州とのことだった。

他にも、フランス、ドイツ、タスマニアにも合法化に向けた動きがあるようだ。

例えば、若者への「福祉」を増やす簡単な方法は、老人を殺せばいい、ということになる。60歳になったら、すべての日本人を「安楽死」させるのだ。どうせ彼らはもう子どもを産めない。しかも、定年を迎え、あとは年金を使って、国のお金を浪費するだけ、というわけである。
これが

である。国家主義は、こうやって「殺される」老人の中から、特に国家への「貢献」の多寡によって、「安楽死」の時期を変える。もしも、国家に安楽死をさせられたくなかったら、

  • バーター

で国家にお金を払うわけである。こうして、お金持ちは長生きを「許される」。
しかし、ピーター・シンガーの言っていることも、ほとんどこれと変わらないんじゃないのか。

同じく2011年にカナダで回復不能植物状態にあるとされる1歳の男児について、裁判所が呼吸器の取り外しを認めたジョセフ・マラアクリ事件でも、ピーター・シンガー功利主義的なコスト論を説いている。この事件では、判決の後も家に連れ帰って死なせてあげたいと望む両親の願いを受け、キリスト教系の支援団体が募金を行った。そのおかげでジョセフは米国の病院で気管切開を受け、5ヶ月後に亡くなるまで自宅で過ごすことがかなったが、シンガーは、その募金について、「もしプリースト・フォー・ライフが真剣に人命を救おうとするなら、子ども時代の正常なよろこびを経験することも、まして成人することもできないというのに、ほんの数ヶ月だけベッドに横たわっている時間を延ばすためにジョセフを『救出する』代わりに、募金で集めた金を使って150人の命を(途上国にワクチンを届けることによって)救うことができたはずだ」と書いた。

まさにこれこそ、「経済成長」であるw これによって、「国家」はどれだけ、国家の資産を増やせるだろうかw
私は基本的に、脳死を人の死と考えて、臓器を取り出し、臓器移植を行うことも、生前の臓器移植にも反対だ。それは、そもそもそんなに簡単に、人の臓器をなくしたり、交換したりという行為が

  • 成功率の高い

行為だと思えないからだ。まず、生きている間に、例えば、腎臓の一つを取り出したとして、本当にその人はその後も「健康」なのか。相当に負担の大きい、それ以降の生活となっているのではないのか。また、他人の臓器を体に入れたとして、どこまでそれは「自分」なのだろうか。
ピーター・シンガーの言っていることは、世界中の「無駄な命」を、殺して、その分の浮いたお金で、

  • 将来、健康体で育って、国家にたくさんの税金を収めることになる子ども

に投資をしよう、と言っているわけであろう。ピーター・シンガーが救おうとしている人間は、「健康」な「次の世代」を産んでくれる、

  • 将来のある若者

であって、

  • 「健康」な「次の世代」を産むことを到底望めない、病的な人たち

ではないのだ。むしろ、彼はこういった人たちを「殺すべきだ」と言っているのと変わらない。
ようするに、ピーター・シンガーの描く「未来」の社会は、おそらく、国家が国家にとって

  • 無駄

と判断した国民を好きなだけ殺せる国家ということになるであろう。これこそ、一般意志2.0計算マシーンであって、国民は毎日、普通に生活をしていると、ある日突然、国家が

  • こいつを今のまま生きさせていても、国家の「経済成長」の役に立たないから、この場で殺す

というわけである。まさに、アニメ「サイコパス」で、銃をかまえ、スコープから除くと、そいつが

であることを証明する、というわけである。

一方、厚労省の「終末期医療の決定プロセスにかんするガイドライン」(2007年)や日本医師会をはじめ関連学会のガイドラインでも、十分な情報提供と関係者によるていねいな話し合いによって本人の意思を尊重した医療を行う方向が打ち出されている。2012年は日本老年医学界が人工栄養の中止にかんするガイドラインによって、患者の不利益が利益を上回ると考えられるときには不開始だけでなく中止も認めた。日本医師会も「終末期医療の現場は多様で、法律で縛って混乱を招くより、緩やかな指針の方が望ましい」としている。
日本尊厳死協会の副理事長で、多くの著書で「平穏死」を勧めている長尾和宏も自ら「在宅の現場で尊厳死、平穏死、自然死は普通に行われている現状にある」ことを認めている。尊厳死も平穏死も、「法制化しなければならない」わけではない。
それなのに、なぜ今わざわざ法制化なのか。そこに医療費削減のねらいがあるのではないか、というささやきも、巷では聞かれたりする。
実際、2012年のニュース番組で自民党幹事長(当時)による「(どのように社会保障費を削減しますか、との問いに答えて)私は尊厳死協会に入りますよ」との発言があったし、2013年に入ってからも副総理兼財務大臣が「チューブの人間」について「政府の金で(高額医療を)やってもらっていると思うと寝覚めが悪い。さっさと死ねるようにしてもらわないと」と発言するなど、この問題の周辺で政治家による「失言」が相次いでいる。

私はピーター・シンガーの言うような「動物の権利」というのが、まったく理解できない。それは、逆に言うなら、彼の言う「生きる価値のない命」が存在するという考えも理解できないのと同じように思われる。
私が「諸条件の平等」が重要だと思うのは、そいったフェアなシステムにしないと、人びとの間に「不公平」の感覚がはびこり、いずれそれは、「爆発」すると思っているから。
明治維新の下級武士の爆発もそうで、そこになんらかの「不平等」があると思われる限り、その鬱憤は、まったく、不健全な形で爆発する。もしかしたらそれは、人類の「滅び」となって結果するかもしれない。そう考えるなら、基本的に余裕がある限りは、「諸条件の平等」は非常に有効な政策だ、と思っているからだ。
なんにせよ、自分を「フェア」に扱ってくれていると思える範囲で、私たちはその共同体に、心地良いコミットメントを感じている。それは、たんに自分だけではない。ジョン・ロールズが言ったように、自分以外の人で、極端に「疎外されている=いじめられている」人を見かけると、

  • いつかその人が自分になる

という想像力をかきたてられ、不安になる。そう考えるなら、なんにせよ、余裕のある限りでは、全員の「諸条件の平等」は、できる範囲で、実現し適用しておいた方がその共同体は、風通しのいい、開放的な空気を感じるであろう。
それに対して、ピーター・シンガーのように、

  • この「無駄」な人間を殺して、浮いたお金で、10人救おうぜ

といったような世界は、一気に雰囲気を悪くする。いつ自分が国家に殺されても不思議でなくなり、不安になり、自暴自棄に世界を破壊することさえ厭わなくなる。ピーター・シンガーのように、近所の不幸な人を見殺しにしてでも、はるか遠くのアフリカの飢えた子どもを救わなければならない、という主張も私には理解できない。というのは、私にとって重要なのは、

  • 身の周りの人が、自暴自棄になって、世界の破壊へと暴走してしまう

ことを避けうるための「諸条件の平等」こそが、一義的な関心だから。だれだって、自分が「見捨てられた」と思ったら、自暴自棄になるよね。それを避けうるのは、そいつに「お前を見捨てていない」という実質的かつ事実的なメッセージを送ること以外にないわけでしょう。
俺はお前を見捨てていない
まあ、だからだれだって、がんばれる、と。
例えば、アニメ「聲の形」にしても、主人公の硝子も石田も、彼らの自殺未遂は、結果として死ななかったから「いい」じゃなくて、少し間違えば、死んでいた、ということなわけでしょう。そして、その原因を考えてみると、小学校時代の「いじめ」につきあたる。そしてその「いじめ」というのは、

  • 同級生が「お前死ね」と言う

ところに本質があるわけでしょう。まさに、ピーター・シンガーが「お前は生きる価値がないから死ね」と言うことと変わらない。お前がクラスにいると、他の健常者の子どもの「成績」に影響があるのだから、「功利主義」的に、聴覚障害者の硝子が死ねば、クラスの全員の「幸福」の度合いが上がる、と。
硝子の父親が、硝子の母親と離婚する理由は、硝子の母親が硝子という聴覚障害者を産んだことであった。ようするに、硝子の父親は硝子のような聴覚障害者の子どもを育てたくない。それは、健常者を育てることと比べて、膨大な「苦労」が予測されるから、最初からその苦労を背負い込むことを避けるために、離婚をする。
ことほど左様に、この社会は、聴覚障害者の硝子が「生きよう」とすることを邪魔する。硝子が生きていると、俺が不幸になるんだ。こういったメッセージをずっと出している。お前が死んで、俺に迷惑をかけなければ、俺は東大に合格できる、とかw
そういった意味では、石田が硝子の自殺未遂を、体をはって止めたことは、そのアンチテーゼのメッセージを表現しようとした、ということになるのであろう。それが成功しているかはともかく...。

死の自己決定権のゆくえ: 尊厳死・「無益な治療」論・臓器移植

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