3・11が起きて、福島第一が過酷事故となり、今に至るまで収束宣言も、原因究明もつまびらかになっていないわけであるが、そもそも、この東電の原発事故には先例があったわけで、それが、柏崎刈羽原子力発電所であり、つまりは、新潟県であった。
多くの人がこのことを忘れているのが私にはずっと気になっていたのであるが、そのことを、まさに「当事者」として、だれにも理解されない中、ずっと主張していたのが、新潟知事の泉田さんであった。
しかし、である。
どうも変なのである。3・11が起きて、確かに福島第一に注目は集まった。福島第一を「観光地」にしようなどというふとどきなことを言う連中もあらわれた。ところが、なぜか彼らは、柏崎刈羽について言及しない。
これはなんなんだろう、と思ったわけである。
私は、福島第一にしても、柏崎刈羽にしても、非常に正当性が薄いと思っている。それは、たんにこれらが原子力発電所で、同じBWRの機種であり、同じ東電のものであるというだけでなく、そもそもこれらの原発の立地地域が
- その電気を使っていない
というのは決定的なんじゃないのか、と思っていたわけである。つまり、そこで発電されている電気を自分たちが使っているのなら、まだ「しょうがない」と思えるわけであるが、使っていないわであろう。東北電力や北陸電力という別の会社の電気を使っている地域なわけで、なんで自分たちに関係のない電気の「発電」で、こんな苦労をしなければならないのか、という思いはどうしたって拭えないんじゃないのか、と思ったわけである。
また、これを反対にした関係が「東京人」にあるんじゃないのか、と思ったわけである。
例えば、「シンゴジラ」という映画があった。あれは、なぜかゴジラが東京の中心を目指して、海から上陸してくるわけであるが、そのことが、つまりは「東京」という土地を「繁栄」させなければならないという私たちの「義務感」に対する挑戦として、行われている。つまり、私たちの無意識として、
- 東京に電気を運ばなければならない
という裏のメッセージを含んでいる。つまり、そのことを直截に言うなら、
- 東京のために地方は犠牲にならなければならない
であった。このことの非常に分かりやすいメッセージが、福島第一であり柏崎刈羽であった。この二つの大きな特徴はそれぞれ、
- そこで発電されるエネルギーを地元が使わずに東京に運ぶ
- そこで事故が起きても地元が被害を被るだけで東京は安全
という関係となっていて(特に柏崎刈羽は、間に山で隔てられている)、どちらにしろ、はっきりしていることは
- 東京にとって「功利主義」的に絶対的に「お得」
だということである。東京人にとって、福島第一と柏崎刈羽は、「あればお得だ」ということに尽きているわけで、だとするなら、最初からこれは
の問題だったのだ。
これは、東京の「倫理」の問題だった。東京が「悪」であるのかどうなのかが問われていた。
もしも、福島第一であり柏崎刈羽が「あるべき」と言うなら、どうして、日本の首都を新潟であり福島にしないのか? あらゆる、政府機関を、新潟であり福島にもってくるべきではないか。私は今でも、日本の首都を
にすべきだと思っているが、それは新潟県に世界最大の柏崎刈羽が置いてあることから、むしろ、倫理的に求められる政策だと思っている。もしも東京の今の繁栄が、福島第一と柏崎刈羽によって支えられた何かだったとするなら、それは「内容」をもったものとならなければならなかったはずだ。つまり、
という構造を、徹底して破壊することなしに、この関係が永遠に続くことはありえなかったはずなのだ。
なぜ、東京は今だに
- 反省
しないのだろうか? なぜ、今まで通りの何かを福島第一や柏崎刈羽に「求める」ことの正当性があると考えるのか(この無反省と映画「シンゴジラ」の東京破壊はシンクロしている)。もはや、そんなことは無理なのだ。そんなことが可能になる世界は、永遠に訪れない。そして、おそらく、少しずつ、そのことが何を意味するのかを、東京人は理解していくのであろう...。