高山守『ヘーゲルを読む 自由に生きるために』

さて。今さらではあるが、「自由」とは結局なんだったのだろうか? この世界は物理法則によって、「因果律」に支配されていて、あらゆる結果には原因がある。だとするなら、この世界は

  • 機械論的

に、すべては「必然」の連鎖によって、繋がれている、ということになる。なにもかもが、はるか原初のこの世界が産まれたときから、必然の連鎖によって繋がれていて、なに一つとして、過去から「決定」されていなかったものはない、と。
しかし、だとするなら、私たちが「日常」において「自由」と呼んでいるものは、なんだ、ということになるのだろうか?

コンピュータを使う。車を運転する。その他さまざまな機械を使いこなす。のどの渇きや空腹を感じ、飲んだり食べたりする。病気になれば、その原因を聞き取り、治療に専念する。こうした場合、世界は因果必然的であり、法則必然的であると考える。他方、私がさまざまに思いめぐらせ、決心して振る舞う。この場合には、およそ必然性といったものは念頭になり、私は端的に自由であると考える。
このような私たちの日常的な考えは、実は不可解で理不尽なのである。にもかかわらず、私たちは、ほとんど何の問題をも感じることなく、それを保持し続けている。いまや明らかだろう。それが、ほぼそのまま、カントの二世界論なのである。カントは、かの矛盾を調停するために、「コペルニクス的転回」を遂行し、かの二世界論に行き着いた。しかし、それによって、その課題を果たすことはできなかった。その失敗にもかかわらず、この二世界論は生き続ける。なぜなら実はそれは、私たちのほとんどがいまなおもち続けている、根本的な世界観なのだからである。
この根本的な二世界論お解消に、実に、その後多くの人たちが挑んだ。ヘーゲルもその一人なのである。

カントの議論は観念論とも呼ばれているが、

  • 感性界 ... 物理的な現象(因果必然)
  • 知性界 ... 物自体(自由)

というふうに、この世界自体を二つに分けてしまった。つまり、このカントの分け方が合理的かどうかはおいておくとして、実際に、今の私たちのだれもが、物理世界の「因果必然」と、自分が日常的に「心の中で考えている」、選んで決断して行動するといったことの「自由」な行動とが両立していることを

  • 当たり前

のこととして行っていることをもって、基本的には私たちはこのカントの「枠組み」を踏襲している、という意味で、どんなにカントの「理屈付け」がうさんくさく思えても、この枠組みまでを捨てることができない、ということなのである。
明らかに、カントの言っていることは「うさんくさい」し、変だと思うわけだが、しかし、だからといって、カントの「枠組み」までを捨てられない。なぜなら、実際に私たちはこのカントの「枠組み」を踏襲しているように思われるから。
なにかがおかしいが、それがなんなのかをうまく言えない。
そこで、ひとまず、ヘーゲルがカントにどういう形で「かみついた」のかを、ふりかえってみたい。

すなわち、カントは、先に述べたように、道徳そして自由を、私たちが日常生活を營む「感性界」とは区別された「知性界」に帰属するものとした。ヘーゲルは、この点を、ここで、まずは肯定的に評価する。というのも、この「知性界」において私たちは、この世界と完全に一体であり、「絶対的な同一性」を、したがって「絶対的な自由」を実現しているからである。たとえば、<うそをつかないこと>(<正直であること>)は、カントの言う「完全義務」(Ak.4.421)だが、この義務(道徳)を遂行することは、完璧は自己(主観)の実現であると同時に、「知性界」という世界(客観)そのものを生きることなのである。こうして、「絶対的な自由[「絶対的な同一性」]は、この非現実性[「知性界」]において、真なるものであると認められる」(441)、というのである。
しかし、この「絶対的な自由」が、「真なるもの」であるのは、あくまでも「非現実的なもの[知性界]」においてのみである。つまりそれは、私たちが実際に生活する世界(「感性界」)を「まったく無意味な現実」(443)として切り捨て、ただ頭のなかでだけ思い描く自由であるにすぎない。ヘーゲルによれば、すでに見たように、「絶対的な自由」とは、そうではなく、私たちが生きる現実(「感性界」)をも全面的に取り込んだものでなければならない。そして、そのことは、カントも、十分に了解していたのだ、という。
実際カントは、道徳に、現実世界での幸福をも盛り込んで、この両者の一体化----「道徳と自然との調和」(445)・「道徳と幸福との調和」(449)----を「最高善」(Ak.5.4など; 3.456)と規定し、その実現のために、魂の不死と神の存在を「要請したのであった。ヘーゲルは、第三節第一項「a.道徳的世界観」において、この点を指摘する。そして、第二項「b.すりかえ」において、この点を批判する。すなわち、「最高善」が実現した世界とは、正直者がバカを見ることなく、幸福になれる世界であるわけだが、そこにおいては、「道徳的な行為は、およそまったく存在しないことになる」(456)。なぜなら、道徳的であること、正直であることが、そのまま現世の幸福を教授できるということなのだから。人びとは皆、幸福を享受するために、安んじて、正直者となる。つまり、道徳的な行為などというものは「余計なもの」(ibid.)となってしまう、という。結局、「最高善」などというものを考えるということは、人間にとって、幸福なるものがいかに重要かということを、問わず語りに語っている。道徳こそが最高の価値だなどと言ってみても、たちまち「すりかえ」られて、最高に価値あるものは、実は幸福なのである。一般に、大切なのは決して、道徳ではない。少なくとも、道徳のみではない。それと同等に、あるいは、それ以上に、現世の幸福こそが大事なのである。皆が、そう考える。そして、実は、カントもまた、例外ではなかったのだ、というわけである。

こうやって見てみると、むしろ、私たちにとって「違和感」をもつのは、ヘーゲルは基本的にはカントの「枠組み」を踏襲している、という方にあるわけである。ヘーゲルはまず、カントの「二世界論」を受け入れている。その上で、この二世界は

  • 統一

されなければならない、という展開になる。しかし、その場合の統一が、どういった枠組みにおいいて考えるべきものなのか、といった理屈の場所に向かうところで、プラトンイデアに近い「絶対精神」のようなものを仮構する作業を、まさに、カントを越えて、

として目指される。
つまり、私がここで言いたかったのは、ヘーゲルがカントの二世界論を基本的に「受け入れている」わけで、そうではなく、私たちの素朴な疑問は、そう簡単にカントを受け入れられるのか、だったわけであろう。

だが、『精神現象学』の後半をも含め、一通りヘーゲル哲学をたどり終えたいま、はたして私たちは、こうした夢の実現を果たしうるに至っただろうか。ヘーゲル哲学は、それほどに説得的であり、力あるものでありえただろうか。むろん、そうではないだろう。もし、それほどに力なるものであるならば、ヘーゲル哲学は、もっと多くの人々に、あるいは、圧倒的に多くの人々に、受け入れられ、愛読されることだろう。

ヘーゲル哲学は、プラトンイデアを「神への信仰」が、どこかで「想像」することの正当性を支えている、といったような構造になっていて、それが「絶対精神」として仮構される。そういう意味では、ヘーゲルは「神学」の域に留まった、と言うこともできるが、ヘーゲルに言わせれば、それはカントも同じなのであり、むしろ、カントはその部分で「中途半端」だったことが批判の対象になる。
しかし、そういったヘーゲルやカントの「思弁的」な、信仰への「こだわり」を、いったん、考慮の外に置かせてもらうなら、そもそも考察の対象にあったのは、物理法則の法則必然性と、私たちが日常において行っている「自由」な選択の「矛盾」だったはずなのだ。
今のアカデミックな議論がどうなっているのかは知らないが、おそらくこの問題が不思議に思われるのは、脳における思考活動が、一次的な「感覚器官」からの、感覚の「マッピング」(経験)から、次の段階の、「思弁的」な、

  • 断片

となって、脳の中で生起していき、去来するものとが、ほとんど「経験的」なレベルでしか、対応関係が成立していないことが関係しているのだと思っている。つまり、思考のレベルでの、例えば、「言葉の断片」のようなものが、頭の中を去来するとき、それらはあくまでも、「経験」に関係して、脳が産まれてから今に至るまでに「構成」してきた「学習」的なものに過ぎないために、

  • 「自由」な選択

  • 産まれてから今に至るまでの「学習」の構成物

とを区別できないのだと。だから、「自由」に選んでいる、というより、過去からのこういった「言語」的な脳内の構成物が、「必然的」に導いているのだが、「それ」を「自由」と区別ができない、ということなのだろう。
どうしてこれを私たちが「不思議」だと思うのかは、早い話が、「感覚器官」が「経験」しているものの「マッピング」が脳内にあるとして、それと、産まれたときから今に至るまでの、過去からの「言語」的な構築物が、私たちの感覚としては「シームレス」に連続しているように思えているが、実際は、まったく

  • 独立

して成立していて、むしろ、ある「幻想」として、そう思うように無意識に「強いられている」ことにある、と(この二つの違和感であり齟齬は、たびたび発生するが、そのたびに人間の頭が、「言語」側の脳内の構成物を随時変えていってしまうので、自覚的にその違いを意識できない、または、そのように人間が作られている、と...)。

ヘーゲルを読む 自由に生きるために (放送大学叢書)

ヘーゲルを読む 自由に生きるために (放送大学叢書)