カオス理論と「自由」

私たちが日常において「自由だ」と思うというのは、「そう思う」というところにポイントがあって、具体的にどうあれば「自由に振る舞ったのか」を定義しているわけではない。そもそも「自由」とは、私たちが子どもの頃からのさまざまな「経験」において、それを「自由」だと思ったのが「自由」なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
他方において、この世界は「因果必然」的な決定論だ、という話も、よく分からないのは、例えば、量子力学コペンハーゲン解釈においては、「確率」によってしか記述できないような性質の「決定論」だというわけだから、分からなくなる。もちろん、それは量子的なミクロな現象においての話であり、巨視的な世界は基本、機械論的な決定論でやれると言っても、「ちりつも」で量子的現象が私たちの日常を侵食しているわけで、むしろ「確率論」的決定論という「非決定論」の方こそが、本質的な世界記述なんじゃないのか、と言ってみたくもなる。
いろいろと言ってみたいことは他にもあるのだが、例えば、「カオス理論」というものが現代科学においては欠かせない世界観となっている。このカオス理論は、ちょっとしたパラメータの違いで、まったく別の動きをする、というわけで、ようするに「非線型」だ、というわけであろう。
そもそも「自由」とは、私たちの「判断」が、その時、どう考えても「偶然」に選んだようにしか思えない、ということであって、ちょっとなにかが違っていたら(例えば気分)、違った判断をしていただろう、としか思えないようなものに対して言うわけであろう。
しかし、そういう意味では、上記の「カオス理論」に非常に近いという印象を受けないだろうか。つまり、「自由」は非線型なのだ。
例えば、こんなふうに言うこともできる。確かに、因果律は過去から、あらゆるものが「決定」していたと言うことができるのかもしれないが、だからといって、上記の話から、そもそも

  • 「私たち」が未来を予測できるわけではない

わけであろう。つまり、あまりにも「微妙」なパラメータの変化を「観察」できないのだから。だったら、そういったものを私たちが「決定論的」と言ってみたところで、なんの意味があるのか、ということにならないか。
そのように考えてみたとき、私たちが日常で「自由」と呼んでいる行為は、なんらかの「責任」と関連して考えられているもので、必ず「複数の選択肢」が、「それなりの蓋然性をもって選択可能と思われる」状態での、

  • 選択

について名付けられている、といった程度のものであって、そこに深い意味はない、と考えるべきなのだろう(私がいわゆる「リベラリスト」を警戒するのは、こういったところにもある...)。