国家と規範的国民

国家というのは、ようするに、官僚を中心にして「運営」している組織のことであって、その国家が

  • 無駄なお金を使いたくない

と思ったとき、まっさきに「削る」インセンティブを与えるのは、貧乏人への「福祉」ということになる。ようするに、貧乏人への福祉を減らせば、官僚たち自身への「給料」を増やせる。だとするなら、どんな理由であれ、貧乏人への福祉を減らすことこそが、官僚たちのインセンティブになる、ということを意味するわけであろう。
そういう意味では、国家官僚とお金持ちは相性がいい。お金持ちとは、多くの場合、なんらかの「経営者」側の人ということで、労働者の賃金を減らして、国家へ納めるお金持ちに対する累進的税金を減らせば、さらにお金持ちになれるわけで、国家官僚とお金持ちは「グル」になって、国民をだます。
しかし、もしもそうなら、どうやって私たち貧乏人であり、労働者は自らの「生活」を守れるのだろうか。
そもそも、国家のセーフティーネットは、各個人の生活が回らなくなったときのためのガードなのであって、そういう意味では「今」お金持ちであるかどうかは関係ない。どんなに今、資産があり、多くの給料があっても、なんらかの理由によって私たちは

  • 破産

しうる。そして、そうやって貧乏人になれば、今度は自分が、貧乏人となり「福祉」に頼ることになる。しかし、である。そうやってお金持ちが貧乏人になったことは、

  • 本人の努力で避けられたのか?

は、常に疑わしいわけである。貧乏人となることは「誰にでも起きうる」ことであり、そうである限り、彼らへの「福祉」を抑止する理由にはならない(なぜなら、その立場に、だれであろうと立ちうるのだから)。
同じようなことは、長谷川豊とかいう奴が、人工透析患者を「殺せ」と言ったことにもあてはまるわけで、人工透析患者となりうる「蓋然性」は、どんな人でもありうる。どんなに健康を注意している人でも、遺伝的性質からありうるかもしれない。早い話が、

  • 官僚やお金持ち

でさえ、ある日突然なるのが「病気」なのであって、長谷川はそういった日本中の人たちに喧嘩を売ったわけであろう。人工透析患者になったら「殺せ」というのは、上記の文脈で言うなら、国家が

  • 無駄なお金を使いたくない

と言ったときに、貧乏人への「福祉」の削除と同様に、

といった「価値観」を併置したわけで、この問題が社会的に影響が大きかったのは、早い話が

  • 官僚やお金持ち

といった連中こそが、ある日、突然、「人工透析患者」であり、病人になるのであり、長谷川は「なったら殺せ」といった「価値観」を示したわけで、だとするなら、この「価値観」は、

  • 官僚やお金持ち

に対してさえ、「攻撃」の牙をむいたことになるからだ。ネトウヨ的行動規範の特徴は常に「敵」を定義するところから始まる。それは、エーリッヒ・フロムの『自由からの逃走』が描いた構造が基本的に適用できるわけで、常に

  • あいつらが私たちを邪魔していて、あいつらさえいなければ「すべてうまくいく」

という主張の構造になっている。サヨクであれ、人工透析患者であれ、常に彼らは「文脈」に応じて、次々と「敵」を発見し、「そいつらさえいなければ」と言い続ける。
しかし、である。
そういった敵とは、結局のところ

  • 自分でない人

という意味にしかならないのではないのか? 長谷川は「人工透析患者」に「敵」を見出したわけだが、ようするに彼は今、自分は「人工透析患者」でないということを言っているに過ぎず、いつかそうなるかもしれないし、なったとき、彼が「殺せ」と言った「自己責任」の範囲の「患者」であったために、自分が言った規範の範囲において、「殺せ」の対象なのかもしれないし、いずれにしろ、少なくとも、当分の間は自分はその範囲の外だと思えている、ということを言っているに過ぎない、というわけであろう。
この構造はネトウヨの攻撃対象とされている「サヨク」についても同様だ。とりあえず、今のところ、自分を「サヨク」ではないと思えている時点で、敵認定をしているだけで、それ以外の意味はない。
ここで少し、論点を変えてみよう。
例えば、近年の日本では「タバコ」については非常に厳しい倫理規定がされるようになったが、なぜか「お酒」について二十歳の年齢制限を除いて、非常に緩やかな規範しかない。街を歩けば、酔っ払いがそこらじゅうでくだをまいているし、電車の中は酔っ払いの迷惑行為が氾濫している。例えば、SNSなどでの多くの「不謹慎発言」も、多くは、お酒の力を借りて、言ってしまっているんじゃないのかと疑わせるものがある。
早い話が、お酒によって人々が「理性」を失うのであれば、少なくともパブリックな場ではお酒を「禁止」すべきなのではないか、という考えは十分にありうるように思われる。お酒が理性を失わせて、

  • 普段なら絶対に言わないこと

を、つい言ってしまう。確かにそれは「ありうる」ことであろう。しかしそれを「ホンネ」と言うのは違うのではないか。お酒を飲んでいたから、言ってしまった、行ってしまった、というのは、ホンネというより「間違った」行動なのではないか。つまり、自らで自らをコントロールできない中で行ってしまった、ということなのだから、「ホンネ」というより、

で行ったということになり、「ホンネ」であろうと「ホンネの反対」であろうと、間違っているという意味では行いうるわけであろう。
例えばこう考えてみよう。お酒を飲んでいて行ってしまったことだからといって、「犯罪を犯してしまった」とするなら、それは「罪」なわけであろう。罪とは「行為」のことであって、お酒を飲んでいたから、「無礼講」とか、そういう話ではないわけだ(この問題は、芸能人の高畑祐太被告のレイプ事件について被害女性が週刊誌で言っていることでも「ひどく酔っていた」ということを言っているわけで、正直、そういう人は自室に閉じこめておくくらいしか対処方法なんてないんじゃないのか、と思わなくもないわけである)。
犯罪はそもそも、「被害者」が被ることになる「被害」において測られるものであって、つまりは「実害」が問題なのであって、だったらお酒を飲まなければいい、少なくとも人前で飲まなければいい、ということになる。
しかし、そうなっていないことには、なんらかの社会側の「欺瞞」がある、ということなのであろう。さまざまな「犯罪」が警察によって逮捕され、裁判にかけられている場合に、そういった「加害者」がどれだけ

  • お酒の力を借りて

それらの行為に及んだのかは、どこまでパブリックに報道されるだろうか。例えば、ISであり、戦前の日本の軍隊であり、そもそも麻薬は当たり前のように使っている、と言う。なぜなら、それによって「恐怖」を感じられなくなるから、それは自己責任とかに関係なく、ISや戦前の日本の軍隊が「慣習」として、ある「作戦」の前には、半強制的に行われていた、ということなのだという。しかし、同じような構造が、日本の一般社会における「お酒」がからんだ「犯罪」においても起きている、と考えることは可能なわけであろう。
このことは、上記の長谷川による「人工透析患者を殺せ」論にも繋がる。彼は人工透析患者が問題なのは、そのための医療費が高額になるからそう言っているに過ぎず、同じように、「タバコ」で病気になった人やお酒で病気になった人の「医療費」を問題にしないのは、医療費の多寡を考えているに過ぎない。しかし、そういった論理のすりかえは、欺瞞的であろう。もしも、人工透析患者が問題なら、タバコやお酒をたしなむ人は、すべからく

  • 死ね

と言うべきだ。ようするに、彼は発言のバランスがすべからく、「功利主義」的だから、社会からハブにされたのであろう...。