世界はなぜ「働かなくていい」社会にならないのか?

例えば、一方において、お金持ちは子どもに十分な教育費用をかけて、私立の進学校に入学させて、東大に入れて、卒業すれば立派な社会的ステータスのある企業に就職して幸せな老後を過ごしているのに対して、貧乏人は満足に結婚もしないだけでなく、結婚して子どもができてもその子どもに十分な教育機会も与えてあげられないというのは、そもそもの社会の成り立ちから考えて

  • 理不尽

だと思うことは、それなりにゆえあってのことなのではないか、と考えたとき、だとするなら、その「反対」というものに対して、社会が「残酷」になることは、そんなに不思議なことではないのではないか。
つまり、もしもお金持ちやその子どもが、一転して

場合に、多くの貧乏人はそれを「ざまあみろ」と眺めて、同情の手を差し延べないわけである。
このことは、一見すると「残酷」で「同情」しないのは人間として「おかしい」と思うかもしれないが、よく考えてみると、なんだか「虫がよすぎる」ような気もしてくるわけである。なぜなら、だったらなぜお金持ちたちは、自らが栄華の絶頂にいたときに、貧乏人たちの

  • 苦しみ

に手を差し延べてこなかったのか。なぜ、自らにそういった社会変革を行える「実力」をお金持ちというその「権力」を手にしていたときに、実行しなかったのか。自分が実践してこなかったくせに、自分が「困った」ら、急に社会は自分に優しくすべきと言うのは、ちょっと「虫がよすぎる」ことはないのか。
このように考えてみると、そもそもなぜ私たちは「競争」をさせられているのか、よく分からなくなってくるわけである。おそらく、こういった「競争<幻想>」を体にしみこませられたのは、学校時代なのだろうと思う。そして、なぜか「経済成長」を、そういった「受験競争」のアナロジーで考える「幻想」がこのときに定着してしまう。
よく考えてみると、「成長」と「競争」にはなんの関係もない。なにかが成長したからといって、なぜ「競争」をさせられなければならないのか。勝手に学習して、勝手に「うまくなる」ことが、なぜ「競争」と呼ばれなければならないのか、ほとんどなんの相関関係もないわけだ。
同じように、なぜ私たちは「働かなければならない」と思っているのかは疑問だ。そういった「労働」は、ロボットや動物がやることであって、人間は社会が「生かせる」ような社会にならなければならないんじゃないのか。つまり、人間はわざわざ社会に貢献

  • させられる

ことがなくても、その本質として、勝手に貢献

  • してしまう

ようなものではないのか。だとするなら、この社会は、まさにベーシック・インカムで、全員が生きるために必要なレベルの「収入」を保障すべきなのではないのか。つまり、なぜこれが実現されないのかは、よくよく考えてみると、よく分からなくなってくるわけである。
このように考えてみればいい。
この社会はすでに「裕福」なのだ。私たち人間は、農業のイノベーションを発明し、すでに、少人数で、多くの食料を生産する技術を達成した。石油などのエネルギーの確保も、それなりに実現した。だとするなら、もう社会は十分に「国民」を食べさせていけるのではないのか。
こういったことをすでに実現しているのが、アラブの石油産油国なわけであろう。こういった国では、税金がないだけでなく、教育は無料、医療も無料。それどころか、国家から「おこづかい」ももらえる。一生働かなくても生きていける。
なぜ、こういった国に日本はならないのか?
これだけ「先進国」などと呼ばれてきながら、なぜか、そうならない。つまり、それは、そう「できない」、そうするための「能力がない」のではなく、

  • あえて

そういった国家にしないような「圧力」が、どこかからか、かかっている、と考えるしかないのであろう。
しかし、そのことと上記の「お金持ちの没落に対して、社会が冷たい」こととは深く関係しているのではないのか。つまり、これは一種の「ゲーム」なのだ。まさに、

  • SMプレイ

ゲームのような構造になっていて、お金持ちは「サド」プレーヤーとして、日常的には毎日、貧乏人を痛めつけているわけだが、なぜか貧乏人たちはそれを「マゾ」プレーヤー的に楽しんでいる。ところが、彼ら「お金持ち」たちは、まさに、

  • トリクルダウン

的に、ときどき、そういったお金持ち集団の中から「こぼれ落ちて」くる。すると、待ってましたと言うように、貧乏人たちには彼らが「餌」であるかのように与えられて、彼ら「没落した旧お金持ち」たちを、同情することなく残酷な扱いをする

  • ゲーム

が始まる。こうして、社会の因果応報は続く、というわけである...。