魔法少女と死

例えば、「戦う司書」というラノベがあったが、あの世界においては、多くの重要な登場人物がボロ雑巾のように、無意味な死を迎えて、世界から消えるのだが、作品世界としては、そういった死者が後々になって重要な役割を担うことになる。つまり、なんだか「亡霊」のように、その世界を支える存在のような立ち位置になって現れる、というわけである。
しかし、これを読んでいる読者とすると、あまりにも重要な登場人物が次々と死んでいくので、ものすごいストレスを感じる。こんなに理不尽に人というのは死んでいいのか、と思ってしまう。
例えば、アニメ「魔法少女まどかマギカ」において、マミさんというお姉さん的な立ち位置の魔法少女が、残虐な殺され方をするわけだが、同じような展開が見られるアニメとして、「WIXOSS」や「魔法少女育成計画」がある。これらに共通する特徴は、ある「ゲーム」に参加して

  • 負ける

ということが、なんらかの「死と同等の終わり」を意味している、ところにある。
ゲームに参加するということが、プレーヤーに大きな「パワー」を与えることになりながら、その結果として「敗者」になると、「死または死と同等」の状態になる。
そもそも、中学生や高校生はまだ「未成年」である。だとするなら、彼らはそもそも「保護対象」なのであって、彼らが「死と同等」に扱われるような「ゲーム」に参加することは、義務教育的な意味において「禁止」されるのだろう、と思うわけである。
しかし、こういった作品を作る作者の視点においては、こういったことは

  • 資本主義社会の弱肉強食

を描いている、というアナロジーの意識があるのだろうと思うわけである。資本主義は勝者と敗者に、人々を分ける。経済競争に負ければ、多額の借金を抱えて、市場から撤退することになる。敗者は、多額の負債を抱えて、

へ没落するのだ。しかし、そのことは日本の文脈においては、ほとんど「死」と同義語のような印象を受ける。富裕層が貧困層へ没落することは、子どもは進学を「あきらめる」ということを意味する。子どもは「未来」の選択肢を

  • あきらめる

のであって、このことを上記のアニメは、「少女の死」のアナロジーによって描くわけである。
魔法少女はこの世界を救うが、その魔法少女が「敵に負ける」とき、そもそも、単純に、ある女の子が「殺される」という、端的な事実を意味するに過ぎない。たとえ、どんな能力を魔法少女がさずけられたとしても、それを「死ぬ」ことは、全然別の話なのだ。
魔法少女とは、言ってみれば、工場労働者が、なんらかの機械工具を現場から授けられて、機械を直していることのアナロジーと考えられる。そういう意味で機械が直れば、工場製品を生産し続けるわけだが、そういう意味で、魔法少女の死とは、例えば、工場にあるプレス器具に、作業中の「事故」で、はさまれて死んでしまうような事態を意味するわけである。
魔法少女が戦うのは、彼女たちは、中学生や高校生なのだから、それは一種の

  • アルバイト

だということになるであろう(実際に、賃金が払われているかは疑わしいが)。だとするなら、その

  • 労働条件

は、本来なら非常に「厳しい」対象にされなければならない、ということになる。ところが、上記のアニメにおいは、そういった「リアリズム」がない。言わば、魔法少女

  • 奴隷状態

に置いている、という意識がない。こういったところに、作成サイド側の「悪意」を感じるわけである...。