フラット革命と「唯一性」

アニメ「響けユーフォニアム」第2期第4話は、まあ、原作の第二巻の話で、原作通りなのだが、細かい話をやっているなと思うかもしれない。
例えば、少し前まで、まあ、3・11以前まで、「フラット革命」なることがよく言われたことがあった。あらゆることはコモデティ化され、世界中のどこの地域でも売っているものは一緒。しまいには、みんな同じ慣習で同じ言葉を話し、

  • 同じ

ことを考えて生きるのだろうと。そのことの含意は、「労働力」の均一化を意味していた。もしも労働力が均一なら、企業は最も物価の安い地域を探して、工場を転々とすることになる。そのことは、早い話が、企業が日本から出ていく、それが「合理的」なんだ、という意味をあらわしていた。
もしも人間が「同じ」なにかであるなら、それは人間は「いつだって代わりはいくらでもいる」ということになり、そのことは端的に、いくらでも、賃金を安くできるし、それを拒否すれば、世界の果てのまだ見ぬ安価な労働力を使う、ということを意味していた。
それに対して、上記のアニメは、合奏コンクールの地方大会を前にして、二年の「みぞれ先輩」という個人が、部に一人しかいない、つまり代えがいないフルート奏者であることが、話を難しくしていた。つまり、みぞれは同期の希美と接触すると体調を悪くする現象に悩まされていた。このことを知った、三年のあすか先輩を始めとして、大会を前にして、みぞれになにかあったら大変だと、はれものにさわる感覚で、希美を彼女に近づけない戦略でいた。
しかし、である。
なぜみぞれは希美を苦手にしていたのか? それは、去年の合奏部における当時の一年の大量退部に関係していた。当時の先輩と軋轢を起こしていた当時の一年の多くは、そこで退部をしたのだが、なぜか、みぞれは希美に退部を誘われなかった。みぞれは中学のとき孤独な少女だった。そんな彼女に学校に通う動機を与えたのが希美だった。希美は帰宅部だったみぞれを合奏部に誘った。そのことがみぞれにとっての希美を「唯一性」の存在にしていた。みぞれはなぜ希美が一緒に退部を誘ってくれなかったのかをずっと悩んでいたのだ。
のぞみにとって、合奏での演奏は、

  • それ自体

の何か「快楽」を与えるものであるという性格のものではなく、彼女と希美を繋ぐ「媒介」のようなものであって、そもそも「動機」が他の人とは異質だった。なぜ音楽をするのか。そこが根本的に他者と異質だったのだ。
フラット馬鹿は「代わりはいくらでもいる」と言って、みぞれの代わりがいなくて右往左往するわけだがw、世の中そんなもので、なにが人を動機づけているのかなんて、同じわけがない。同じ飴をあげれば、だれでも尻尾を振ってついてくるわけではない。そのことを、私たちは「一般性」と「単独性」の違いと言っていたわけだが。
早い話が、みぞれにとっての希美は「倫理」的な関係であった。だから、この関係を抜きにして、そもそも合奏部なんていうものに「価値」を見出せなかった。しかし回りの合奏部の連中にとって、みぞれは「代え」のきかない奏者だっただけに功利主義的な対応に違いがでてしまった。
おそらく、中長期的にはフラット革命は正しいのであろう。しかしそれと、短期的な「相対的」な人間の存在形態は違うのだ。おそらく、多くの場面でこの二つの差異への違和感が社会システムの「ひずみ」となって、社会を脆弱にしているのであろう...。