大島堅一「電力システム改革のもとで進められる原発費用の国民への転嫁」

そもそもこの日本国家システムは長い間、自民党独裁システムによって維持されてきた。しかし、マックス・ウェーバーが「権力は腐敗する」と言ったように、長期の権力の座への居座りを許した時点で、どのような権力もなんらかの「腐敗」を免れない。それはそもそも「なぜ長期の権力の独占が可能なのか」に関係しているのであって、それが原因であり結果だからだ。
そのことの証左を日本の原発政策に見出すことは容易であろう。日本の原発は東電などの「民間企業」が運営している。しかし、そのことが何を意味しているのかを考えている人は少ない。

問題は、合理的根拠をもって廃炉費用が計算可能になると債務として認識しなければならなくなることである。そうなると東京電力債務超過になる可能性がある。その場合、法的処理という選択肢をとることもありうるが、東京電力債務超過にさせないとした2011年の閣議決定(「東京電力福島原子力発電所事故に係る原子力損害の賠償に関する政府の支援の枠組みについて」2011年6月14日)に抵触する。つまり、事故後5年を経て廃炉を具体的に計画し、費用を計算しなければならなくなっているが、これは同時に債務超過を招きかねない。政府と東京電力は大きなジレンマに陥っていると言える。

逆に、現実的に回収できないのであれば、それは原子力の経済的評価が誤っていたということになる。原子力に経済性があるとした「エネルギー基本計画」そのものを見直さなければならなくなるだろう。経済性がないのであれば、あえて原子力発電を維持する必要性もまた揺らぐはずである。

もしも、日本の原発が単純な国策政策であれば、単純に「国民の意思」によって、原発は終わっていたであろう。つまり、国民投票などで、結果がでた時点で、日本の全ての原発廃炉になっていた。それは、小泉元首相が行った郵政民営化と同じで、国家が選択できる範疇のことだからだ。ところが、日本の原発の特徴は、それが「民営企業」によって担われていたことにあった。
では、民営である場合、なにが問題となるのか。その最大の争点が、「債務超過」だ。なぜなら、債務超過とは、一般的にはその企業の「倒産」と同値の現象だから。つまり、

なのだ。そう考えると、多くの人は「なにかがおかしい」と思い始めるのではないか。3・11が起きて、福島第一の廃炉費用は年800億円で計算されてきた。というか、これを聞いて、日本中の「専門家」は、

  • だったら

ということで、今の国の原子力政策に賛否両論を含めて、大きな反論をしないできた。ところが、ここにきて、

  • やっぱり年「数千億円」に変えてください

と言ってきたのだ。よく考えてみてください。こんなことを、民間企業の経営者がやったら、即刻「倒産」じゃないでしょうか。こんな「見積りミス」はありうるでしょうか?

原子力事業の費用は、あらかじめ確定しない部分が多く、後になって金額が判明する。

これに加えて、今の原発政策を決定的にダメにしてしまったのが、新潟県知事選挙の結果であろう。国家が言うことを国民が「黙って従う」というのは、3・11以降もうありえない。むしろ、それを「経営の条件」に含めている自体が、

を意味しているのであって、そもそも最初から「なぜ原発は民営化されているのか」の大原則に反しているわけである。
例えば、「もんじゅ」はどこも「引き取り手」がなく、結局廃炉の方向にならざるをえなくなったが、今後は、あらゆる「原発ビジネス」が各企業の「お荷物」になっていき、自社企業からの

  • 切り離し

が喫緊の課題になっていくであろう。自社に原発関連を抱えていること自体が「計算不可能性」を意味し、経営を脆弱にする。おそらく今、原発政策を政権が変えていないというのは、おそらく

  • 安倍首相の保守政治家としての野望(=憲法改正

を実現するまでの間に、安倍首相自体が首相を止めさせられざるをえないような「責任問題」を表面化させないために

  • あらゆる汚点を隠蔽する

という工作によって維持されているに過ぎず、もはや、「もんじゅ」をだれもひきとろうとしなかったように、どこの会社でも一切の原発ビジネスは「社内のお荷物」になっていく。そりゃあ、そうである。800億が数千億になるビジネスをやれる人がいるなら会ってみたいものである...。

科学 2016年 11 月号 [雑誌]

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