不肖の弟子

アニメ「ストライクウィッチーズ」の世界は、「魔女」と呼ばれる魔法力を人以上に特別にもった少女たちによる、人類の敵「ネウロイ」との戦いを描いた作品であった。
そういう意味では、そういった少女たちは、「特別に選ばれた」言わば、「エリート」であった。彼女たち「ウィッチ」は、最初から「才能」を見込まれて戦争の最前線に送り込まれる。そういう意味で、彼女たちが「活躍」するのは、そういった「能力」をもった存在であるのだから、「当たり前」と言うこともできる。
つまり、これだけでは作品は成立しない。もしも作品が作品として成り立つためには、なんらかの「差異」がそこに必要とされる。
主人公の宮藤芳佳(みやふじよしか)は、もともと、「医者」の家系であった。つまり彼女が、「戦争は嫌い」と言うことには、一定の理由があった。芳佳の「軍紀違反」は、そもそも彼女が軍人でないこと、医者であることに関係していた。つまり、彼女にとってその二つを明確に区別するなにかが、最初から彼女にはなかった。ようするに、彼女は最初から最後まで「軍人ではない」。しかし、そのことと彼女が特別な才能をもった「エリート」であることは区別されない。
例えば劇場版の前半では、彼女はウィッチとしての能力を失っているのにも関わらず、自らの危険をかえりみずに、人々を助けようと行動するわけだが、「そのこと」を作品全体として「肯定」する背景として、そもそもの彼女がもつ「潜在的」な能力に対しての「評価」が関係している。なぜか彼女は劇場版の最後で、また以前の能力を復活するが、逆に言えば、「そう」だから彼女の場合、だれも彼女に対して、難しい「軍隊のルール」を言わない。それだけ、圧倒的な戦力はそれ自体が軍内部の「功利主義的」な意味をもってしまっているから、ということになる。
他方、アニメ「ブレイブウィッチーズ」の主人公、雁淵ひかり(かりぶちひかり)はどうだろうか?
ひかりはそもそも、「エリート」ではない。エリートは彼女ではなく、彼女の姉、雁淵孝美(かりぶちたかみ)だ。ということは、どういうことか? 話のいきがかり上、姉の孝美の負傷により、連合軍第502統合戦闘航空団からの姉の離脱のタイミングで、502への配属を言われた妹のひかりは、第4話において、入団テストにおいて、その圧倒的な魔法力不足により、日本への帰還を言われながら、最後の「テスト」として、塔の頂上にある帽子を魔法力でよじのぼり、取ってくることを一週間以内に行うことを命じられる。

ロスマン:なんですか?
ラル:あきらめさせるんじゃなかったのか? 確かに魔法力の少ないあいつにはこれしかない。だが、こんな方法でクリアしてもあとがつらいぞ。
ロスマン:あの子のあきらめが悪すぎるんです。
ラル:そうか。不肖の弟子か。

ひかりには魔法力がない。そういう意味では彼女を「エリート」として扱うことはできない(「エリート」は姉の孝美だ)。ではどうするのか? 隊長のグンドュラ・ラルから、訓練係を命じられたロスマン先生は、最初、彼女を日本に帰す「ため」に、こんな無茶なテストを言い渡したはずだったのに、最後で彼女の「手助け」をする。もちろん、こんなことをやっても魔法力が急激に上がって、「エリート」になれるはずもないのに。なぜそんなことをするのか? つまり、ロスマン先生は最初と最後で言っていることが違っているのだ。
一般的に「不肖」という言葉は、自らが「へりくだって」言う場合に使う用語で、「愚かな」という意味になる。そう考えると、この場面で、こういった用法は少し、不遜な使い方に思われる。
しかし、そういう意味では、「ウィッチ」とはエリート集団なのだから、最初から不遜だと言うこともできる(つまりここでのこの表現は少しアイロニカルなニュアンスを含んでいる)。こういったエリート集団に、ひかりがいることは不釣り合いであろう。しかし、だとするならなぜ、ひかりはここまで502にい続けることにこだわるのか。それをこの作品は「姉の代わり」という彼女の自意識に求めている、と言えるであろう。
しかし、彼女はエリートではないのだから、エリートにはなれない。つまれい彼女は姉にはなれない。彼女は姉ではない。
私たちの人生において、どれだけの間、私たちは「教師役」を行うことになるであろう。それは分からないが、多くの場合、私たちに多くを考えさせるのは「不肖の弟子」だ。「できる」子どもはある意味、マニュアル通りにやっていれば、勝手に「成長」する。そういう意味では、「エリート」に対して「教育」は不要だと言うこともできる。というか、

  • だれでも

「エリート」に対しては、教師になれる。なぜなら、教師が「無能」でも、勝手に成長するのだから。そういう意味で、「不肖の弟子」に対してこそ、教師の

  • 実存

が試されている。なぜ教師はここにいるのか。なぜ、ロスマン先生はひかりを「教える」のか。むしろ、ここで問われているのは、ひかりの何かではなく、ロスマン先生の「真実」だ、と考えることもできるかもしれない...。