殺人バーベキュー

東京デザインウィークというイベントで起きた、5歳の子どもの焼死の事件は、そのショッキングな動画を抜きにしても、私たちに非常に考えさせるものがあった。
例えば、なぜ公園のジャングルジムには木材の遊具がないのかといえば、燃えたら危険だから、と言うしかない。だから木材を使うとしても燃えにくい木であり、それなりにコーティングなどがされて燃えにくくされたものを使う。
そのように考えると、この事件は、ほとんどその「制度」から、不可避的に起きたのではないかと思えてくる。
というか、私には今回の事件は「ミニ福島第一」といったような印象さえ受ける。
確かに事件のジャングルジムが燃えている映像はショッキングだが、それ以前に「燃える前」の、この木材で作られ、さらに、木くずのようなもので覆われている姿は、普通の感覚をもっている人には「恐怖」を呼ぶものではないか。
例えば、IT系において、なぜ「ロボット」の商品がこれだけ少ないのかの事情を調べていくと、ようする、ロボットの「手足」が、ユーザーに怪我を負わせるリスクを無視できないから、だということが分かってくる。市販されているロボットの多くは、ノッペリとした、トポロジカルな形状をしているのは、それが理由だと言える。
わざわざ「木くず」を木材にかぶせるというのは、まさに「バーベキュー」のときに行う行為で、そう考えると、この光景の「異常さ」が分かってくる。
もちろん、多くの場合、こういった「装飾」を行うときは、こういった「木くず」を燃えにくい素材の化学素材で代替したり、さまざまな加工をほどこして、燃えにくくしたり行っているだろうと考えて、

  • まさか、そのまま「木くず」を使わないだろう

と多くの専門家も思ったのかもしれない。
しかし、そもそも「芸術家」とはそういう人たちなのではないか。つまり、芸術家とは「常識外れ」な人たちなのであって、世の中の公園にあるジャングルジムが木くずで覆われていないという、「普通はやらない」ことを、だからこそ「こんなことを考えついた俺スッゲー」と言ってやるw だから、「非常識」だから「芸術家」なのではないか。
おそらく、「芸術家」というのは、多くの場合その「作成段階」において、さまざまな「事故」を経験しているのではないか、と思われる。つまり、さまざまな「無茶」をやった後に残った、「燃えかす」のようなものが私たちが見る「作品」なのだろう。
それが「芸術=聖域」論なわけで、つまり、こういった「常識外れ」な集団を「社会」はどうやって「管理」していくのかが問われている。
どうすれば、私たち一般の人たちは「芸術家」に殺されずにすむだろうか?
一番簡単な方法は彼らに「近づかない」ということになるだろう。実際、今回の事故も子どもがジャングルジムで遊ばなければ起きなかった。
例えば、今のニュースの焦点はなぜその日に限って、業務用の白色電球を使ったのかに移ってきているわけだが、LEDなら問題なかったといったような考えは、そもそもの「開催期間」が非常に短いから、おそらく問題は顕然化しないだろう、といった考えなのであろう。
しかし、あのジャングルジムというトラブルが起きたときに逃げ出しにくい構造、あっという間に火が回る構造、子どもの体格でなければ遊べない構造から、作成者たちが実際にジャングルジムの遊びを「体験」していないと予想されること、こういったことを考えても、こういった「悲劇」が起きるかどうかは、たんに、確率の話でしかなく、実際、なんらかの静電気くらいでも、大事故が起きなかったことが検証されているわけでもなんでもないわけである。
起きてはならない事故が起きたのだから、だれか「責任者」が非難されるのは当然であろう。しかし、それは誰なのか。もしも責任者がいないとなると、この子どもや親の「自己責任」ということになる。つまり、子どもさんが、芸術遊びでは、すべてこういった「リスク」をひきうけさせられるということになる。
早い話が、これを作った人たちの「心の中」までは、他人には分からないし、芸術家とはそういった「なにを考えているか分からない」人たちの作ったものを「評価」する人たちが行っている集団の世界の出来事なのであって、もしもそういった「事故」すらも「芸術」と考えるような「サイコパス」が現れたとしても、なんらかの「ガード」を社会が行えるようにならなければならない、ということになるのではないか。
そういう意味では、今回の事故は、日本で「芸術家」と呼ばれている人たち全体が「起こした」事故だとも考えられるわけで、私たち「社会」はどうやって、こういった芸術家集団に殺されないで生き延びられるのかを、システムによって担保していく社会を目指さなければならない、ということなのであろう...。