今期一番のアニメ

別に、今期のアニメをすべて見てどうのこうのと言っているわけでも、そもそも見るつもりも、そんなモチベーションもないのだが、勝手に独断と偏見で、今期一番のアニメをあげるならそれは「ViVid Strike !」であろう。
しかし、ここにおいても、私は別に、「なのは」シリーズを初期の頃からフォローしてきているわけでもないし、その辺りについて、何かを言いたい気持ちをまったくもちあわせていない。
つまりこれが、なんらかの「魔法少女」がどうのこうのといった話なら、最初から私は興味がない、ということになる。
そういう意味で、今回の「ViVid Strike !」は非常に表現において、禁欲的だということになる。明らかに、ここにおいて、その「魔法」は、非常に抑制的な表現形態に限られている。アニメ「魔法少女リリカルなのはViVid」であり、その原作の漫画を見ると、一つだけはっきりしていることは、なぜか登場人物の少女たちが、「総合格闘技」を行っているということで、一体何が起きているのだろう、ということなのだ。

スポーツ格闘魔法少女作品で「重い展開の戦いでなくても、心のあり方、悲しみに立ち向かう強さを描くことはきっとできる」という主旨のもとで描かれ、ストライクアーツや模擬戦などスポーツとしての格闘シーンが多い。
魔法少女リリカルなのはViVid - Wikipedia

つまりどういうことかというと、彼女たち女の子が「総合格闘技」を行えるとか、行ってもそこまでも体のダメージが残らないという意味では、「魔法」が関係していることは間違いないのだが、そういったバックグラウンドでの「少女が格闘技を行う」ことに関する「無理」に対しては、その無理筋を「魔法」が、裏で支えているということはあるのだが、積極的に「魔法」自体を表現の一義的な資材としていない。それはあくまでも「総合格闘技」に主眼があって、見ている観客には、まったくもって

をやっている人たちにしか見えないような、「注意深い配慮」が作品作成側に見られる。
アニメ「魔法少女リリカルなのはViVid」において、主人公が「なのは」から、その娘のヴィヴィオに変わる時点で、しかしヴィヴィオが「なのは」の本当の娘ではないという意味で(形の上では養子となるのか?)、ヴィヴィオがなんらかの形で、こういった「格闘技」のようなものに興味をもつことは、なんとなく理解できるように思われる。
そのことは、リンネ・ベルリネッタが格闘技を始めたこととも関係しているわけで、地元の不良が、柔道や剣道や空手の道場に通うようになって、礼儀正しい子どもになっていくわけだけど、ようするに、回りが彼らをリスペクトし始めるような関係だ、ということである。
柔道や剣道や空手道は、たんにスポーツというより、そこになんらかの「武道」であり、なんらかの「精神的」な芸事といった受けとめられ方をしていて、そういった日本の慣習が、総合格闘技においても見られている。
ヴィヴィオやリンネやフーカが直面しているのは、つまりは、

  • 普通の家族

から一線外れた子どもに対する社会の「偏見」なのであって、そういった世間のプレッシャーに対して、柔道や剣道や空手道の道を極めることは、一定の緩衝材の役割を果たしていることは否めないであろう。
アニメ「ViVid Strike !」第8話において、リンネはヴィヴィオに二回目の敗戦を喫すわけであるが、そのことがリンネの「挫折」として、予感させるようなフラグが多く示されている。
なぜ作者はリンネがヴィヴィオに負ける展開にしたのか、といった話もあったわけだが、一つはっきりしていることは、リンネの試合に挑む姿勢が、どうも「不純」であることは間違いない印象を受ける。そういう意味では、だれにリンネが負けるにしても、その敗戦には、リンネの試合に挑む態度の不純さへの非難が込められなければならない、という色彩があったわけであろう。リンネの勝負への姿勢は一見すると真摯であるが、どうも「勝てばいい」といったような態度にも見えるわけで、そういった存在はいくら、相手が「いいとこのボンボン」だとしても、軽蔑される。まあ、フェアでなければいけないという意味では、リンネは「動機」の面で、戦う姿勢に評価できない側面がある、ということになるのであろう。
おそらく、第9話以降に、リンネのなんらかの「挫折」が描かれているのだろう。なんらかの「トラウマ」の再現と共に、彼女は戦えなくなる、ということなのか。そうした奈落の底に落ちたリンネにどうフーカが関わっていくのか。まだ。先は読めないでいるが...。