子どもの約束

私たち大人にとって、子どもの頃というのは「過去」であって、そして、単に過去なのではなく、「子どもの頃」なのであるわけだが、子どもとは、そもそも、

  • まだ大人ではない

という定義なのだから、つまりは「学ぶ」のが子どもであって、子どもの定義であって、そういう意味では「できない」のが、子どもなのだから、子どもが「完璧にできる」とかいうのは、一種の自己矛盾なわけである。
そういう意味で、100点のテストをもってくる子どもは「不気味」なわけで、それは一種の「虐待」と変わらない。ある意味において、「奴隷状態」を意味していると言ってもいい。
大人になって、企業で働き始めると、そういった子どもの「作法」とは違ったプロセスを経ることになるわけで、どうやってらミスを減らせるのかは、その「手法」に端的に示されているわけで、つまりは、それだけの

  • 時間

をかけて、ミスを回収するような多重チェックの体系をチームの共同作業として実現していくものへと変わっているわけで、もう既に、こういった段階では、「子ども」の教育手法とは大きく違っている。
子どもとは「完全でない」存在と同値の意味なのであって、子どもが間違えるのは当たり前。それが、子どもが「大人でない」ということの意味なのだから。
しかし、そう考えると、一つ、どう考えたらいいのかが分からない問題が見えてくる。つまり、

  • 約束

である。子どもが「約束」をする場合、それはどうなるのだろうか? 上記の議論の流れからいうなら、子どもは間違うことを必然とするのだから、そういった子どもと結ばれる「約束」は結局は意味がない、ということになる。
しかし、である。
他方において、子どもは「時間」を経ることによって「大人」でと変わる存在なのであって、つまりは結局のところ、子どものその約束は「大人」の約束になる。大事なことは、子どもは大人に「なる」ということなのであって、当然、その大人は、その「約束」と向き合うことになる。
アニメ「フリップフラッパーズ」の第6話「ピュアプレイ」において、主人公のパピカとココナは、美術部の彩いろは先輩のところに、家庭科の授業で作ったクッキーをもっていくと、私は手にマニキュアを塗る「資格」がないんだ、と自嘲ぎみに話す。
パピカとココナはピュア・イリュージョンの世界で、なぜか彩いろは先輩の子どもの頃の世界に行き、いろは先輩の追体験をする。両親がいつもケンカをしていたため、家に帰りたくなかったいろは先輩は、近所の親切なおばちゃんの所に、毎日通っていた。いつも親切にしてくれた、おばちゃんは、ある日、彼女に「マニキュア」をプレゼントしてくれる。そして、彼女は、もしも私がいろはのことを忘れてしまったら、その時はあなたの名前を教えてほしい、とお願いしいろははそれを約束する。
ある日、いろはがいつものように、おばちゃんの家に行くと、おばちゃんはいなくなっている。実は、痴呆症の症状の関係で、病院に入院していた。いろはは、病院で、たまたま、おばあちゃんを見かけ、声をかけると、なぜかおばちゃんは「あなたはどなた?」と聞いてくる、いろは先輩は、それが

  • 怖くて

その場から逃げてしまう(これが、最初の彩いろは先輩の態度を意味している)。
パピカとココナは、現実に戻ってきたが、自分たちが「約束」をまだ果たしていないことをくやしく思い、もう一度、いろは先輩の過去に戻ることを決意する。病院のベッドで寝ている、おばあちゃんの前に戻ってきた二人は、「どなた?」と尋ねる、おばあちゃんい向かって、二人は手を握りあって「彩いろは先輩です」と答えるところで、ピュア・イリュージョンは終わる。
次の日。彩いろは先輩のいる美術部に向かうと、屋上にいた彩いろは先輩は、両手にマニキュアを塗った両手を、パピカとココナに見せて、笑いかけてくる。
子どもにとって、「約束」とはなんだろうか? 分からないが、少なくともはっきりしていることは、子どもが「大人」になったとき、その子どもの頃の約束は

  • 大人にとっての約束と「同じ」

だということである。それはもはや、子どものものではないのだ。大人になった子どもにとって、子どもの頃は「過去」であり、今ではない。しかし、「約束」は、私たちを「規定」する。彩いろは先輩の子どもの頃の深い傷は、大人になっても大事に示されている、ということなのだ...。