自由と富裕層

自由というのは、自分が好きなだけ、東大受験をするために勉強する時間を確保する自由のことであり、東大受験をするための勉強の時間を「いくらでも確保できる」自由であり、つまり、朝から晩まで、東大受験のための勉強ができる、または、それだけを考えて過ごすことのできる、そういう

  • なにも強制されない

ということを意味している。
しかし、例えば、あなたの目の前に道端に捨てられていた赤ん坊がいたとして、その赤ん坊をあなたが今ここで救わなければ、まあ、間違いなくその赤ん坊が死ぬことが予想されているとき、いや、私は来年の東大受験をするんだから、そんな赤ん坊の子育てなんかに関わっている余裕はないんだ、と。だから、その赤ん坊が死ぬのは「しょうがない」。なぜなら、もし赤ん坊に自分が、関わることによって、東大の入試に落ちることになったら、自分の目的追求に失敗するのであるから、赤ん坊を助けないことは合理的だ、ということになる。赤ん坊は今のところ、なんの才能もない、田舎の凡人の血を引く程度の価値しかないが、もしも自分が東大に入れば、天才として国家から厚遇されることになるので、

  • 国家の財産

として、自分が価値ある「才能」となるわけであり、そのためなら、庶民の凡人の子供が何人死のうが「たいしたことではない」というわけであるw
このように考えると、そもそも私たちの社会においては「自由」とは、

  • お金を出して買うもの

なのではないか、という疑惑が浮かんでしまう。例えば、家の中の家事などはお金持ちの家では基本的に、メイドさんがやってくれる。外出するときの車の運転も、執事がやってくれる。そういった人間の働いた「報酬」をお金持ちの家が払っているのだから、それによって、そのお金持ちの家の人たちは

  • 自由

を得ているわけである。私たちは「自由」だから、受験勉強を行えるし、大学に入って、高等教育を受けることができる。しかしそれは、ある意味において、お金持ちがお金を払って「買った」対価だということにならないだろうか?
もしも「自由」がお金を出して買う「何か」だとするなら、日本には「自由」はない、ということになる。憲法に書いてある「自由」は、その「自由」を国民に保証しているのではなく、

  • さまざまな制約(=義務)を果たした後の「余った時間」の範囲内において

というわけである。
アニメ「響けユーフォニアム2」の第10話「ほうかごオブリガート」において、久美子は同じユーフォの演奏者である今年受験の先輩の田中あすかが、受験が近づいていることを理由に母親から部活動を禁止されて、部活を欠席していることに対して、久美子はあすかに、部活動に戻ってほしい、とお願いする。それに対して、あすかは今さら自分は戻れない、自分の代わりとしてがんばっている夏希も、それを前提にがんばっているのだから、と。
しかし、久美子の言う理屈は、もっと単純な話だった。あすかが、離婚して会っていない父親が全国大会の審査員をしていることを知って、その元父親に自分の演奏を聞いてもらいたい、という考えで練習していたことを以前に聞いていた久美子にとって、その理屈は変であり、ひねくれているわけである。今までやってきた「目的」を否定する理由が「迷惑」なら、最初から私たちが生きること自体が「迷惑」なのだ。
久美子がユーフォを始めたのは、姉の麻美子がトロンボーンをやっていたから。つまり、久美子は「おねえちゃん子」なのだ。なんでも姉の「まね」がしたかったし、姉と一緒である自分が幸せだった。しかし、姉は次第に親の「言うこと」に従順になり、吹部を止め、受験勉強に専念するような人になる。だから、その姉が大学を止めると言っていることが、あすか先輩の

  • 態度

に重なる。
久美子は姉が吹部を止めたとき、本当は「止めないで」と言いたかった。ずっと一緒にやっていたかった。久美子には「あすか」は「姉」と

  • 同型

なのであって、久美子はもう一度、あの姉の麻美子が吹部を止めて、トロンボーンを吹かなくなったときに「止めないで」とお願いしたかった「後悔」を、「あすか」の今の態度に対して、今度こそ後悔したくないと思って行動している。彼女は「あすか」を目の前にして言っているが、本当はそれは「姉」に向かって言っている。これは久美子が「姉と一緒にやりたい」と言っているのであって、最初から久美子の「わがまま」なのだ。
しかし、それに対する「あすか」の態度は、久美子への「感謝」にあふれている。あすかがずっと考えているのは、傷ついている母親の興奮している感情がおさまるには時間がかかるし、それについては待つべき、ということなのだろう。あすかの母親が感情的に、あすかの部活動に反対しているのは、言うまでもなく、父親に関わらせたくない、という裏の意識があるはずで、最初から母親は、あすかが吹部をやっていること自体が気に入らない。離婚をするということはそういうことなのであって、あすかがずっと考えているのは、自分が全国大会にでて、自分の演奏を父親に見てもらいたいと自分が思っていることは

  • 本当にやっていいことなのか?

という、もしも母親という他人を傷つけることになるかもしれないことをわかっているのに、そうまでしてやる意味のあることなのか、というところにある。あすかは他の部員には一切見せていない「動機」として、ずっと

  • 父親

の影がある。彼女にとって、自分の「証明」は父親と「対決」することなのであって、それを行うためなら、勉強など始めからどうでもいいのだ。それは、母親を納得させるための、余った時間で済ませるべきものでしかない。つまり、彼女にとって勉強など、自分が父親と対決するという目的を果たすためなら、いくら努力しても、なんとも感じない。ようするに、あすかは「スペック」が高すぎるわけであるw
あすかが「うれしかった」のは、久美子が明確な「コミットメント」をしてくれたことだ、と言うことができる。久美子が言っていることは「自分があすか先輩と一緒がいい」ということで、早い話が

  • 他人は関係ない

ということなのだ。今まで一緒にやってきてくれた、最も身近にいた彼女がそう言ってくれたことは、彼女が全国に行って父親と関わることが「本当はいいことなのかどうか」と別の問題として、彼女が部活を続けることを動機づける。このことは、ずっと隣で一緒にユーフォを演奏してきてくれた彼女だけが言えることだった。
最初の話に戻るなら、あすかが部活動を続ける「自由」は、久美子が「あすか先輩と一緒に部活をやりたい」という欲望によって、久美子が作ってくれるのである。つまり、

  • 私の自由は、他人が私を「自由」にしてくれることによって「自由」となる

わけである...。