疎外女子

アニメ「ろんぐらいだあす」を見ていたら「自転車女子」とかいう表現がでてきて、つまり、「なんとか女子」とかいう表現がはやっているということなので、掲題のタイトルをつけてみた。
「疎外」という言葉は、まあ日常の使い方でも「疎外感」なんて言ってみたりして、つまり「孤独」っていうことで、まあ、クラスでの「シカト」とか、そういった「いじめ」に近いものを表現しようとするときに使われたりする。
しかし、哲学の文脈で「疎外」と言うと、ヘーゲルからマルクスの初期疎外論に引き継がれた独特の用法があって、まあ、そうは言っても、完全に日常の「疎外感」と違っているのかというとそれはそれで微妙というか、まあ、もっと形式的な一般的な用法としてある、ということである。
なぜ私がこういった哲学の文脈と日常的な「疎外感」といった用法をまったく別物と言いたくないのかといえば、例えば、マルクスの初期疎外論においては、疎外とは私たちのこの資本主義社会という、ある「形式」性が、私たちにその「形式」によって、意味を変えられ、自らと関係ないものとされたものとして解釈させられる、その「暴力」性を問題にしているわけで、まったく関係ないとは言えないと私は思っているからなのだ。
哲学とは「資本主義」によって「形式化」されているというのがマルクス資本論であったわけであるが、このことは非常に単純に言えば、「だれでも今の生活水準の下には落ちたくない」という、露骨なまでの「ホンネ」なわけで、しかし自分が下に落ちないことは、つまりは、周りが全員下に落ちれば自分は落ちなくて済むわけで、そういった「エゴイズム」と深く関係している。自分は「ブルジョア階級」で、お金持ちでいたいと言っておきながら、少ない生活費で毎日を必死に生きている人に向かって

  • 説教

をするってなんなんだろうね。そういったデリカシーのなさがこういった「無意識」の体系として、現代を覆っているというのがフロイトの心理学であった。つまりは、こういった「唯物論」性を無視して、学歴をかさにきた「説教」って、かっこ悪いよね、というわけである。
例えばここで言っている、上記の「疎外女子」というものが何を示唆しているのかといえば、アニメ「ViVid Strike!」における、リンネ・ベルリネッタのような、学校での「いじめ」の体験を契機として、ほとんど自らの身近な人間関係から

  • 隔絶

されて、まるで一人で「孤独」にこの世界の中で生きているような「デタッチメント」を表現するようになる。
しかし、それに対して、子どもの頃から一緒に孤児院で過してきた、フーカ・レベントンは「その」彼女の姿をそのままにしておけない。
しかし、こういったフーカとリンネの関係は、まさに、なのはシリーズの第一作「魔法少女リリカルなのは」の高町なのはフェイト・テスタロッサという小学校3年生の二人の関係とまったく同じなわけで、

  • クラスの中の「疎外」されている(=「いじめ」られている)一人を「ほっておけない」

という関係なわけであろう。
ここで言う「疎外女子」における大事なポイントは、その「疎外」されていると周りから思われている当人の側からの視点においては、その「状態」を今自分がそうあることに対しての「被害感情」が少ない。というか「自覚」が少ない。そのことは、作品の「導入部」において

  • 謎(の女)

という形式によって現れる。こういった「疎外女子」の典型的なキャラとして、90年代に反復されたのが、アニメ「エヴァンゲリオン」の綾波レイであり、アニメ「涼宮ハルヒの憂鬱」の長門有希が分かりやすいが、まあ、早い話が

  • 無口(な女)

として表象される(確かに、綾波はクラスの誰とも話さない女の子として表象されていた)。しかし、そのことは、一般的には「モテない」男が、クラスの「高嶺の花」の女子に「相手にされない」ということを意味していたはずなのだが、ある「反転」が起きているわけである。
上記の「疎外女子」に共通した特徴として、彼女たちが結果として

  • 救済

されている、ということなのだと思う。つまり、作品のどこかの段階で、そういった「有り様」が否定され、「本来の彼女たち」というのが「キャラ」化されて、主人公たちの、そういった「疎外女子」を救済する自意識においては、

  • 普通の女の子

として対象化される(それによって、「不気味」な存在から、「日常」の親密な存在として、「安心」の風景に変換される)。綾波はテレビ版エヴァの第6話で、シンジ君の「説教」で「悟り」、最終話では、シンジ君の妄想の中で、

  • 普通の高校生

として、綾波が普通の「ドジっ子」キャラとして、シンジと綾波とアスカが普通に学校に通う風景が挿入されるし、長門有希も作品内に「一時的」な状態として長門が「普通の女の子」となったケースが表現され、それは二次創作の「長門有希の消失」としてサイドストーリーとされたりもする。
そのことは、ほとんどの作品において「共通」して描かれるわけで、上記のフェイトもリンネもテレビ版アニメの最後では、「救済」がされるわけで、まさに「そのため」に彼女たち「疎外女子」は、作品に登場しているかのようにも思えてくる。
疎外女子は、主人公という「セカイ系」の自意識が、自らの「自尊心」を満たすために登場する。作品は、主人公の「正義」の達成する到達点の、メルクマールとして登場する。彼女たち「疎外女子」は、最初から主人公たち「ゼロ年代自意識」の

  • 解決しなければならない「問題」

として現れる。その解決が難しければ難しいほど、その「壁」は大きいとされ、それが「達成」されたときの「主人公の活躍の大きさ」はホルホルされる。
こういった一連の作品郡は、まさにライトノベル的な作品郡の登場と共に、多く「量産」されるようになる。つまり、主人公という「自意識」の「解決」が、なんらかの形で要求されるようになる。
しかし、である。
それは本当なのだろうか?
実際、綾波にしても、フェイトにしても、リンネにしても、なんらかの「親」との葛藤を自らの核心の部分には置いているわけで、なのはシリーズとしては、高町なのはは、シリーズが進むごとに、ほとんど超越的なまでの「強さ」を示さざるをえないところにまで追い込まれていくし(それはきっとフーカについても言える)、綾波長門が「普通のドジっ子」として描かれるその描写は、なんらかの

  • 主人公の空想

という形で、現実=リアルとの差異を作品は示唆する。
まあ、典型的なビルドゥングス・ロマンスだと言ってもいい。主人公が「大人」になる段階において、最も求められるのは「試練」である。そして、この試練が大きければ大きいほど、主人公の子どもから「大人」への遷移は成功した、と解釈される。こういった作品群は、そういった主人公の「成長」の

として、そういった「疎外女子」がまさに「空想」の存在として、<必要>とされる。それは、お前が成長しないということを意味しているわけではない。そうではなく、誰かを「利用」して私たちは「成長」するわけではない、ということなのだ...。