マイナスの功利主義

映画館で、アニメ「傷物語 3冷血篇」を見て、そういえば、ずいぶん昔にこの小説を読んで、このブログに感想を書いたことを思い出した。というか、作品の内容はほとんど忘れていて、阿良々木くんが羽川さんの後ろを歩いていて、俺がこんないい女と話ができるわけがない、といった「妄想」から、作品世界が広がっていた、といった部分だけ思い出して、ほとんど、それ以外の作品の部分を忘れていることに驚いた。
いや、別に覚えていようが忘れていようが、そんなたいした内容じゃないんで、どうでもいいのだが、そうやってこの映画を最後まで見て、なぜ自分がほとんど忘れているのかの理由が分かったような気がした。
というのは、この映画の「結論」として描かれる、忍野メメの解決は、忍野に言わせれば「誰もが損をする解決」と言われているが、この忍野の「提案」に対して

  • 最初

に賛同を示すのは、主人公の阿良々木くんなわけだ。つまり、これってなんだろう、と思ったわけである。確かに、阿良々木くんは「人間」に戻らない。つまり、吸血鬼であり、キスショット・アセロラ・オリオンハートの「眷属」になり続けるわけだが、別に、人間に戻れないことが決定したわけでもない。阿良々木くんは、

  • なんの特徴もない

普通の高校生として生きてきて、そういった「日常」を生き続けることに、「不安」を抱くようになる。それが、上記の学校で一番の美人であり「高嶺の花」の、羽川の後ろを歩いていたときに、心の中で思った、自分への自己卑下であった。そう考えるなら、阿良々木は「本当」は人間に戻りたかったわけではない。つまり

  • 以前の自分に戻りたかったわけではない

わけである。そう考えると、忍野の提案はまさに「本当の心の底で彼が望んでいた結末」だったのではないか、という推測ができる。
というか、私はこの映画を見ていて、確か同じようなことを昔、この小説を読んでいて思ったんじゃなかったかな、ということを思い出した。
ただ、私はこの作品の最後を映画館で見ていて、ちょっと別のことを考えていた。
私はずっと、「功利主義」と戦っているわけだが、確かに、「選好」の<最大化>というのは疑わしい。つまり、こういった「最大化」というのを考えている人は、基本的に人間の「欲望」は

  • 線形性

をもっている、と考えているからだ。確かにもしも人間の欲望が「線形性」をもつなら、

  • 計算に乗りやすい

わけで、体系化しやすいし、デカルトの「要素還元主義」との相性がいい。
しかし、もしも「非線形性」なら?
例えば、フロイトは晩年、戦争神経症の診断経験から、「死の欲動」という初期フロイトオイディプス理論を根底から覆す理論を提案したわけであるが、この考えは、あまり人々の評判がよくない。なぜなら、初期フロイトオイディプス理論のような

  • 欲望の線形性=功利主義の「選好の最大化」の存在性

とうまく整合がつかないからだ。
私たちは一見すると「欲望」をもっているように思われるし、その「最大化」も存在するように、日々の「日常」は生きている。しかし、ある日。私はなんの理由もなく

  • 生きる理由

を失う。なんとなく、まったく生きたくなくなる。朝、ベッドの中で目が覚めても、体を起こして何かを始めようとは

  • 一切

思えなくなる。はて。これのどこが「線形性」であろうw(線形性とは「キャラ」的な「静的」な人間把握に関係している。つまり、キャラとは一種の「フラット化」なのだ)
そう考えると、この映画の結論である「みんなが不幸になる」ことが「解決」である可能性が分かってくる。これは「最大化」と真逆の結論であるが、

  • みんなが不幸になると、「みんなが幸せ」になる

という結論は「ありうる」ということを示唆している。
資本主義社会は「線形性」である。それは、自分は「今の生活水準を下げたくない」という無意識のエゴイズムでできている。しかし、自分が生活水準を下げないための簡単な方法は、自分以外の日本中の貧乏人に福祉を与えなければいい。そうして、彼ら「エリート」は

  • 無意識に貧乏人を殺そうとする

わけである。これに対して、この映画の結論である「マイナスの功利主義」は一種の矛盾である。それは、「みんなが不幸になる」ことが

  • なぜか

みんなが「幸せ」になる、ということだから。それは、どういうことか? 阿良々木が願ったのは、「誰もが誰かに殺されるべきじゃない」ということであった。これを解決する方法は、お金持ちのもっている大量のお金を、貧乏人に渡るような「福祉」をやるしかない。お金持ちは、自らの財産を貧乏人に投げ与えることによって、

  • 自分が貧乏人を殺すことをせずにすむ

という(他人からリスペクトされる)「幸せ」を手にすることができる。大事なポイントは

  • 誰も誰かの「自尊心」を傷つけない

ということが「自らの自尊心」を高めるという、「逆功利主義(マイナスの功利主義)」にあるわけである...。