クリスティーン・コースガード『義務とアイデンティティの倫理学』

進化論は、人間は動物なのだから、進化の「法則」に照らして、「合理的」に行動するものだ、と解釈する。というか、「合理的」でなければ、死んでいた、と。まあ、いずれにしろ、進化によって、人間の「行動」は説明できる、というわけである。
しかし、私たちは、はるか太古の昔から、こういった考えに、直感的には反しているように思われる「行動原理」を知っているし、そういったものの「大きさ」を否定できないものとして考えてきたのではなかったのか。もちろん、それは言うまでもなく「道徳」である。
道徳には、なんらかの「根拠」があるのではないか? しかし、その「根拠」は、どういった「からくり」になっているのだろう? 進化論を非常に単純化するなら、各固体の「利己的」な生存「競争」だとするなら、この「利己的」であることと、「道徳」は一見すると矛盾しているように思われる。
もしも人間の「本質」が進化論なら、道徳は「非本質的」属性ということになって、無視できる。つまり、「非道徳主義者」ということになる。もしもそうではないとするなら、道徳にはなんらかの「根拠」を私たちに与えなければならない、というように聞こえる。
しかし、よく考えてみると、このロジックは少し、衒学的な印象を受ける。そもそも、そういった「根拠」などというだいそれたことを言わなくても、もっと素朴に私たちの日常を規制するものとして、私たちは日々を生きているわけで、そのことを私は「倫理」という言葉を使って、道徳と区別して表現してきたつもりなのだが。

ある行為が正しいと思えば、それをすべきだと思う----そしてそう考えることによって、いつもではないにしても多くの場合、そのように行為する動機が与えられる。それはとても強い動機になることがある、自分が正しいと思うことを行い、ひどい誤りだと思うことを避けるために、死ぬ覚悟のある人は歴史を通じて大勢いた。同じように、ある特徴が美徳だと思えばそれを得たいと切に願い、それを得たいと願わなければ恥ずかしく思うこともあるだろう。この恥ずかしさもまた、とても強いことがある、人生と幸福は、自分は価値のない醜い人間の見本のようなものではないかという思いによって、だいなしになることもあるのだ。ある人の特徴が悪徳だと思えば、そういう特徴を理由にその人を真剣に嫌うこともあるだろうし、その特徴のひどさ加減によっては、その人を交友関係から排除することもある。実際、他者が自分にとって一人の人であるという感覚、つまり特に人間らしいしかたで付き合うことのできる人であるという感覚は、その人が一定の道徳的な美徳----少なくとも、お互いに道具として思うままにしたりされたりしない程度の、誠実さと高潔さ----をもていることにかかっていると思われる。そして、最後に、報いと罰という現象がある。善良な人々、善いことをする人々にはよいことが起こって当然であり、邪悪な人々、悪いことをする人々には悪いことが起こって当然である、と信じている人は多い。報いと罰はとても重要なことなので、神は、人々が当然受けるべき報いを受けるよう配慮して世界をつくったに違いない、と考えた人々すらいるのだ。そうだとすると、道徳的概念を使うとき、われわれはそれらを、自分にとって重要な事柄、非常に深く、強く、根本的に実践的な意味で重要な事柄について語るために、使っていることになる。

上記の引用の中で興味深いのは、ある人の特徴を

  • 悪徳

と判断したときに、その人を端的に

  • 嫌う

ことがある、と言っていることなわけであろう。ようするにどういうことかというと、ここで掲題の著者はなんらかの「二人称」の倫理学を示唆しているわけである。というか、単純に私たちはこういった「原理」に従って行動しているじゃないか、というわけである。
この世に「善」や「悪」は、物理法則のようには存在しないんだから、「非道徳主義者」は正しいとかなんとか言っている奴にしたって、単純に自分の「日常」は、上記の「原理」に従って行動している。ここで、

  • いや。俺は、「サイコパス」並みに利己的に行動しているんだ

と言う人がいたら、その人はそりゃあ、自分で言っているくらいなんだから、「利己的」に(わがままにw)振る舞っているんだろうけど、しかし、そういう奴だって、自分が「だまされた」ら、怒るわけでしょうw まあ、さんざん他人をだましてきて、反対に自分がやられたからって、なんて怒るのか、興味深いけれどねw
ようするに、道徳が「正しい」のか「間違っている」のかとか、そういった高尚な議論がなんだろうが、もっと単純に私たちは振る舞っているし、なんで自分はそう振る舞っているのかなんてことで悩んだりしない。なぜなら、そう振る舞うことは、あまりにも「当たり前」だからなわけであろう。

ヒュームの見解によれば、われわれの道徳判断は、あることを是認したいか、それともしたくないか、という感情を土台としている。この是認、あるいは否認は、ヒュームのいう「一般的観点」からある人物の性格について考えるさいに生じる。一般的観点を採用することで、われわれがその人物について抱く感情は二通りのしかたで規定される。第一に、われわれは自分自身の利益という観点ではなく、その人物自身やその友人、家族、隣人、同僚といった人々に対する共感という観点からその人物を見るようになる。ある人物の性格は、その人物がふだんつきあっている人々(ヒュームの言い方では「近い距離に暮らす人々」(narrow circle))によい影響を及ぼしたり悪い影響を及ぼしたりするのだが、われわれは共感という感情を通じてそれらの事態を快く感じたり不快に感じたりするのである。第二に、われわれはその人物の性格があの場面この場面にどのような影響を及ぼすか、ではなく、そのような性格が普通は周囲にどのような影響を及ぼすか、に従ってその人物の性格を判定する。ヒュームの言葉でいうなら、「一般的規則」(general rules)に従って人々の性格を判定するのである。
こういった二通りの規定の仕組みを利用することで、われわれの道徳判断にはある種の客観性が与えられる。近い距離に暮らす人々に対する共感および一般的規則に従って性格を判定することで、われわれは人物の性格をめぐる意見の収束----感情の収束という意味でのそれ----に達する。つまり、われわれの全員がある同一の性格を是認したり否認したりするようになり、その結果としてわれわれはよい性格に関する理想を共有するようになるのである。さて、よい性格の持ち主、つまり、われわれが美徳の持ち主だと判定する人は、その人自身に対してもその友人たちに対しても有益な、感じのよい人物であろう。人々は、有益で感じのよい性質の持ち主を愛するものであり、自分が愛すべき性格をしていることに気がつけば自分を誇らしく思うであろうから、美徳はおのずから誇りを生み出すし、同様に、悪徳は卑下を生み出す。また、誇りは快い感情であり、卑下は不快な感情なのだから、自らを誇らしく感じたいと思い、卑下を引き起こすようなことはしたくない、というのは自然な欲求である。そして、この欲求から、美徳ある人間にはなりたいが悪徳の人間にはなりたくない、という自然な欲求がわれわれに生じるのである。

ここでヒュームが言っていることは、彼なりに「道徳」と戦っているんだろうけど、ようするに

  • 性格論

なわけである。みんな実際に、そうやってるじゃないか、と。周りの人をその「性格」で、判断しているわけでしょ。あいつ性格悪いな、と思えば、そういった態度をとることになるし。
だとするなら、実際に道徳が「存在」するかどうか、みたいな衒学的な議論は、ほんと無意味なんじゃないですかね。だって、事実性として、そう振る舞っているんでしょ? そのことこそ、カントが「実践的」という表現で言おうとしたことなんじゃないのか。

ここで問題となっている、自分のアイデンティティの理解(the conception of one's identity)は、理論的な理解、すなわち、不可避的な科学的事実としてあなたが何であるかをめぐる理解ではない。それは、あなたが自分自身に価値を認めるさいの自己の記述、すなわち、自分の人生が生きるに値し、自分の行為が行うに値すると思うさいの自己の記述として理解するほうが適切である。そこで、これを、あなたの実践的アイデンティティ(practical identity)の理解と呼ぶことにする。実践的アイデンティティは複雑なものであり、平均的な人間の場合は、さまざまな理解の寄せ集めになっているあろう。あなたは人間であり、女性あるいは男性であり、ある宗教の信者であり、何らかの職業集団の成員であり、誰かの恋人であり....等々である。そして、このようなアイデンティティのすべてが、理由と義務を生み出している。あなたの理由は、あなたのアイデンティティや本性を表現する。あなたの義務は、そのアイデンティティが禁じるものから生じる。

掲題の著者は、カントの「定言命法」を、こういった「実践的アイデンティティ」として解釈する。まさに、自分が「男」であったり「女」であったり、さまざまな集団に

  • 所属

しているという私たち自身の「解釈」そのものが、私たちの反省的認証を形成する。この「所属」の感覚は、おそらく、ものすごく多くのカテゴリーとして意識されているのではないか。例えば、最も小さなものとしては、

  • ある一人の人との関係

を考えることができるであろう。昨日、その人と話をした。ちょっと会話をした。その「所属」は必然的に、「その人」との

を自らの中に、まさにカントが言うように「自律」した「法則」として、反省的に認証される。
もちろん、私たちは長く生きている間においては、最初で検討したように、端的に相手を

  • 嫌う

ことが起き、その人との関係を長くとらないと判断し、実際にそうする、つまり、「その人との関係というアイデンティティ」を自らの中からなくなることも起きる。そういう意味で、このアイデンティティは「実践的」なわけである。
しかし、なんの「アイデンティティ」も失って人は生きていけない。この自らに「アイデンティティ」をもつということが、自らの

  • 自尊心

と関係しているのであって、「いじめ」による生きる力を失うような現象は、この「アイデンティティ」の危機(=相手が自分を「嫌う」)という状態の認識に関係している。
カントの実践理性において、人間は「反省」する存在であるということが本質的に解釈されているわけであって、つまりは、こういったアイデンティティから、常に私たちは、あらゆることに対して「反省」して、行動を決めている、という「事実性」を問題にしているわけで、大事なことは、このことがどんなに空疎な「仮定」に思えたとしても、事実

  • 日々、反省しながら行動を決定している

という事実があることには変わらないわけで、そういうわけで、カントの「実践理性」は簡単には無視できないわけである。

一人の学生があなたの研究室の入口に来て言う。「お話があります。いまお手すきですか?」あなたは答える。「いいえ、すぐこの手紙を書き終えて、家に帰らなければなりません。できれば明日もう一度来られませんか、そうですね、三時ごろとか?」学生は言う。「ええ、結構です。では明日三時に参ります。」

こんな簡単な例を考えても、ここまで言ってきたような「道徳的」な何かが重要であることは分かるのではないか。そもそも、「道徳」のない奴と、こんな簡単な「約束」さえ、成立させられるだろうか? そもそも、「サイコパス」と、こんな簡単な会話さえ、成立するのだろうか? そういった「事実性」を考えるなら、もはや、哲学や道徳が「実際には何なのか」などという、衒学的な「問い」はどうでもいいわけである...。

義務とアイデンティティの倫理学―規範性の源泉

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