御用デンパ

なぜ「エリート独裁」ではなくて、「自治」なのか、ということについては、私はさんざん書いてきたつもりなのだが、ようするに、自分の身の回りを考えてみれば分かるわけで、例えば、日本の国家官僚(キャリア組)が一体、

  • この日本に何人いるか

を考えてみると、まあ、数えるほどだよね。じゃあ、そういった人が自分の身の回りに住んでいて、毎日、この近所を「チェック」しているなんて、まあ、ほとんどの場合、ありえないよね。つまり、そんな人数じゃあ、自分の身の回りのことなんて、気にしていられるわけがない。つまり、端的に「知らない」のだ。知らない人が、自分の身の回りを「合理的」に差配なんて、できるわけがないよね。だって、端的に知らないのだから。つまり、

  • 不可知論

なわけである。知らないことは、なにも合理的なことを言えない。
しかし、それに対して、一見するとそういった「エリート独裁」が可能なのではないか、といったイメージを提起したと思われたのが、社会学者のルーマンであった。それは、

が可能にする、と思われた。IT技術が、そういった少人数による、膨大な人々の「支配」を可能にするのだ、と。
それは「可能」だとも言えるし、「不可能」だとも言える。つまり、ここで「可能」だという意味は、私たち国民が

  • 奴隷

になれば可能だ、という意味であって、いずれにしろそれを「可能」と考えられるように、国民側の権利を制限しよう、という発想だったわけである。
たとえば、もしも人間が「動物」になれば、それは「飼育」の対象なのだから、「可能」であろう。しかし、あなたは「奴隷」と扱われたいだろうか? 嫌であろう。今のように、「自由」を許された存在として振る舞いたいであろう。しかし、それを可能にする方法は、「自治」しかありえないわけだ。
さまざまな形で、エリートは自らの「独裁」を正当化しようとする。つまり、上記の「不可知論」は実は、不可知論じゃないんだ、と言うわけである。
例えば、「フラット革命」や「グローバル化」が一つの正当化の議論として行われた。この世界はみんな「金太郎飴」になって、どこの地域でも同じものが売っているし、同じ言葉を話す。みんなが実質的に「同じ」になっていくんだから、エリートは地域的な「差異」など気にする必要がなくなる。まさに、

  • 東京中心主義

というわけで、東京こそ世界の中心で、東京産まれの俺が「自明」って言ったら自明なのであって、それ以外は「田舎」というノイズだから無視していい、と。
こういった議論には、さまざまな「ヴァリエーション」があるわけで、例えば、こちらのブログを見ると、

今や忘れられ気味だけれど、東日本震災より以前には、東周辺の論者たちは、政治的意識にめざめたり権力を批判したりするのは危険なことであり、現状にひたすら適応するのが良いのだ、とさかんに主張していた。先述したように、東の『動ポモ』は、政治とか社会とかいった「大きな物語」に興味を抱かず、萌え要素で欲求を満たして生きるのが現代風のライフスタイルだ、と主張した本である。じっさい、一時期の東は選挙を行うことさえ疑問視していた。

(前略)ぼくは最近、選挙ってそんなに重要なのか、とよく考えるんですよね。そもそも投票権の行使と言ったって、三年に一回、あるいは四年に一回、お祭りをやるだけですし。(『リアルのゆくえ』、p239-240)

同じような主張は、東に影響を受けた論者、宇野常寛の著作にも存在する。震災前の宇野は、ビッグブラザーは死んでリトルピープルの時代が来た、と主張していた。平たくいえば、ビッグブラザーとは「危険な権力」のことであり、リトルピープルとは、「政治的動機から他人を傷つける、危険な庶民」のことだ。つまり、いまや「危険な権力」というものはなくなったのだから、政治や社会に興味を持たず〈いま・ここ〉に充足して生きるのが正しい、うかつに政治的意識を持つと、あなたは人を傷つける「リトル・ピープル」になってしまうだろう、というのが、宇野の主張だったわけだ。
しかし、なぜ権力は今や安全なものになったのか。人々が政治に関心を持たないなら、誰が政治を行うのか。こうした点について、宇野はこう述べている。 

(前略)この30年の間にビッグ・ブラザーは壊死していった。冷戦は終結し、「歴史の終わり」がささやかれ、不可避のグローバル化国民国家という物語に規定される共同体の上位に、資本と情報のネットワークを形成した。そしてネットワークは「人格」をもたず物語に規定されない価値中立的で非人格的な「環境」に過ぎなくなった。(『リトル・ピープルの時代』、p58-59)

どうもこの引用部によると、人格を持つがゆえに権力を暴走させかねない「ビッグ・ブラザー」は死に、今後は「非人格的」であるがゆえに「価値中立的」な「ネットワーク」が自動的に社会を運営してくれるので、人々は権力を警戒したり社会のことを考えたりはしなくてよくなった、というのが宇野の考えらしい。じゃあその「ネットワーク」とは何であり、どのように従来の権力を代替してくれるのかというと、具体的な説明は一切ない。
東の議論も、結局は宇野と変わらない。宇野が、これからは「非人格的な」ネットワークが社会を運営してくれる、というところで、東は、現代の権力には「意思を見出す」ことができない、といっているだけだ。東の、権力に警戒心を抱くと監視妄想に陥ってしまう、という主張も、宇野の、政治的意識を持つと「リトル・ピープル」になって人を傷つけてしまう、という主張とほぼ変わらない。
東浩紀の伝言ゲーム――アーキテクチャー論をめぐる、大塚英志との論戦について|しんかい37(山川賢一)|note

ようするに、エリートが作るアーキテクチャーに対して、そのエリートの「責任」を追求できない、と言っているのだから、やっぱり「エリート独裁肯定論」になっているわけである。
実際に、東浩紀の「一般意志2.0」という本は、はっきりと民主主義を否定している。エリート貴族政治でいいんだ、という本なのであって、東浩紀にしろ、その元弟子の宇野常寛にしても(当時、東は宇野の『リトル・ピープルの時代』を絶賛していたw)、結果として、エリート官僚が国民による選挙や住民投票を「否定」して、

  • 独裁

すべきだ、という明らかなエリート独裁肯定論を主張していたわけで、この近辺の人たちがどんな「頭の中」をしているのかと考える、そら恐しい悪魔なわけであろう。この辺りは、基本的には、宮台真司の「国家主義」的な側面を継承しているのであろう。
宮台真司は、videonews.com において、ブレグジットトランプ大統領も、国民投票や選挙の前は「そんなことが起きたら大変なことになる」といった、政府寄りの発言に完全に同調して

  • 大変なことになる

と言っていたのに、最近は「私はトランプの当選に賛成していた」みたいなことを言っている。しかもその理由が、「いろいろな膿を出すにはこれしかない」から、だそうだw
宮台は、基本的にグローバリズムに竿さすことは不可能だ、つまり、資本主義のグローバル化の運動を止めることは「不可能」なんだ、といった

  • 運命論者

だったわけで、ようするに、「お金持ちがどんどんお金持ちになり、貧乏人がどんどん貧乏人になる」世界の進む道は不可避だ、という考えだったわけであろう。
例えば、EUなんて、どう考えても民主主義と関係ない。どっかの「偉い」人が集まって、勝手にEUのことを決めている。イギリスがEUを離脱すると言うけど、そう考えると当たり前のようにしか思えない。
トランプにしたって、お前ら、じゃあ、なんで「バーニー・サンダース」を応援しなかったのか。なぜ、バーニーはヒラリーに負けたのかと考えれば、明らかに、民主党予備選挙は「不正」選挙だった。実際、今トランプを非難している新自由主義者は、

  • バーニー(=左翼)が大統領になったら大変だ

と言っていたのである。バーニーが民主党予備選挙という「不正」選挙でヒラリーに敗戦したときは何も言わず、ヒラリーがトランプに負けたら「アメリカのリベラルの敗北だ」とか、何を言っているんだ、と思いませんか?
ようするに、こういった新自由主義者は、国民が何を選ぶかじゃなくて、

  • 自分たち「お金持ち階級」にとって危険な奴は、絶対に大統領にしてはならない

と言っているだけじゃないか、というわけなのである(ようするに、民主主義は「お金持ち」の権利の基盤を揺がす恐れがあるので、民主主義に反対だ、と言っているだけなわけであるw)。
そういう意味では、宮台も東も宇野も「エリート官僚肯定主義」ということでは、一致しているわけであって、つまりは、「国家主義者」だということでは、一致している。
そういう視点で考えれば、柄谷行人宮台真司と「からんだ」といったことは記憶にないし、柄谷行人東浩紀と「からんだ」となると、批評空間の最後の方で一回、鼎談に参加したくらいで、徹底してパブリックな場では「無視」している、ということなのかもしれない。それは、ようするに、宮台・東・宇野には

  • 御用デンパ

を平気で、たれ流せるという「ポジション・トーク」を肯定する側面があるわけで、そういった「質の悪い」彼らの「差別主義」的な側面を、柄谷は軽蔑している、ということなのであろう...。