森田健司『明治維新という幻想』

私が素朴に思うことは、それはマルクス哲学の文脈で言われてきた「物象化」のようなものであって、つまり、人々は「抽象的」な思考を苦手としている。常に、何かを

  • 具体的な何か(=物象化。例えば、キリスト教で言えば、その教義が何を言っているかではなく、「教会」という建物が一種の崇拝の対象となったように)

として考えようとする。しかしそれは正しいのか、ということなのだ。
例えば、「日本を誇りに思う」と言うとき、それは具体的な日本のさまざまな行為が「(どんなにヘタレに見えようとも、実は)どれだけ立派だったか」みたいな話に終始して、つまりは「具体的」に日本が立派でなければ「ならない」といったような、倒錯した証明になってしまっている。
しかし、本当に「日本を誇りに思う」ということは、そういうことではないのではないか。そうではなく、

  • 日本人が究極の「殺し合い」で<全滅>せずに今を生きているのは「なぜ」か?

といったことを考えることなのであって、そういった発想があれば、

  • 日本人が日本を「批判」することを<許して>いること

こそ、究極の「誇り」であることが分かるわけである。日本は日本人が日本を「批判」して、学問の対象にすることを許している。だから、この国は素晴しいのであって、こういった

  • メタの思考

が重要なのだが、こういった抽象的な(=ロジカルな)問題は多くの場合、一般的な大衆にはピンと来ない。具体的な、靖国神社で英霊が祀られていて、そこに、御参りに行ったら、神社の鳥居が大きくて、霊験あらたかな気持ちになったとか、そういった

  • 具体的なモノ

によって、代替されてしまう。
さて。そもそも明治維新とはなんだったのだろうか? それを考えたとき、間違いなく存在したのが、西欧における「近代兵器」の発展であった。

戊辰戦争において、新政府軍は強かった。これは、一切の疑いを入れることのできない、厳然たる事実である。
彼らの強さの秘密は、おそらく二つあった。一つは、恭順した藩に、戦費と人員を要求し、場合によっては、「朝敵」とする藩へ率先して攻め入ることを命じるという、情け容赦ない姿勢だったこと。そしてもう一つは、特に薩長の兵士たちが、最先端の洋式兵器で固めていたことである。

つまり、これは人類の「歴史法則」に関係している。西洋において、さまざまな「イノベーション」が起きて、産業革命が進んでいたが、時の政府の江戸幕府はそういった「テクノロジー」の摂取にそれほど貪欲ではなかった。
そういった国家の「近代化」が遅々として進まない状況で、地方の在野の人々には、中国がアヘン戦争で、欧米の黒船に圧倒的な戦力差によって、植民地化されようとしている現状に、「いずれ日本もそうなる」という危機感をつのらせるようになる。
多くの地方の若者が、実際に欧米に留学を行い、現地の情報をしいれるにつれ、あの中国でさえ、最新兵器によってひれふせようとしている欧米のその「暴力装置」さえあれば、

  • 天下をとれる

ということに、田舎の若者は次第に気付くようになる。そこで彼らは、そういった欧米の人間たちと実際にさまざまな「コネクション」をもつようになり、薩長は、

  • イギリス

から、無尽蔵の武力の調達を成功させるようになる(そこには、おそらく、幕府がフランスと懇意にしていることとの対抗として、イギリス側は田舎の「テロリスト」に武器を供与して、自分たち寄りの政権に転覆させて、この日本の植民地化を自分たち側で成功させよう、といった、まさに戦後のアメリカが発展途上国でやってきた戦略があったのであろう)。
薩長の革命軍が、時間をおいて、東アジアに侵略を始めることは時間の問題であった。それは、この「最新兵器」に関係している。これらをまだもっていない、東アジアの国々を暴力で支配することは、まさに、彼らが中央の幕府を支配することに

  • 成功

したことと同じ「理屈」に従っている。それは一種の「成功体験」なのであって、それで「成功」の味を占めた人は結局は死ぬまで、それしか、生きる道がないわけである。
では、なぜこの「明治革命」は、太平洋戦争での連合軍との戦争の「敗戦」で終わったのかと言えば、この「最新兵器」競争に一定の終止符が打たれたから。それこそ「核兵器」が象徴しているものであって、つまり、日本の特権的な地位は、その時点で終わっていた。暴力革命が成功するのは、暴力力の「差異」に依存しているのであって、その差異がなくなった時点で、日本の特権的地位はなくなった、というわけである。
そう考えると、明治維新とは、一つの

であったに過ぎなくて、あまり一般化できるものではないことが分かるのではないか。こういった歴史の「地点」というのは、まさに、ある地域的な「最新兵器」の差異の発生に依存していたに過ぎなく、その「普及」に対するタイムラグを使って、彼ら田舎の「テロリスト」たちは、テロを成功させた。
しかし、よくよく考えてみると、上記の「物語」には多くの謎がある。まず、

  • なぜ薩長の田舎の若者は、「国家」を支援しようとせず、「破壊」しようとしたのか?

つまり、西郷隆盛こそ、この問題の中心人物なのであって、大事なポイントは、鳥羽・伏見の戦いで、西郷は

  • 江戸を火の海にしようとした

わけであろう。つまり、薩長軍は江戸に「攻め込んだ」わけである。しかし、もしも江戸が戦場になっていたら、一体どうなっていたのか? まさに、アメリカの南北戦争のように、何十年にも続く「内戦」になっていただろうし、それによって多くの国民が死の海になった。大事なポイントは、少なくとも最初は西郷はそれを実現させようとした、モノホンの「テロリスト」だった、ということにあるわけである。

無事、駿府で西郷と面会が叶った山岡鉄舟。彼は、西郷に「この後も朝敵征討のために進撃を続けるのか」と問いかけた。これに対し、西郷は次のように答えている。
「自分は、人を殺したり国家を攪乱したりすることが目的で戦争をしようとしているのではない。ただ不軌を謀る者を鎮定したいだけである」と。
「不軌」とは反逆の意味であり、つまり、慶喜が朝廷に歯向かったために、自分たちは進軍してきたのだというのである。
繰り返すが、鳥羽・伏見の戦いは、朝廷と旧幕府軍の戦いではない。旧幕府軍は、先制攻撃を仕掛けてきた薩長軍と衝突しただけであり、天皇の権威は利用されたに過ぎなかった。ここで、少し前まで将軍だった慶喜を「不軌を謀る者」と言い放てる西郷の精神は、なかなか興味深い。
これに対し、山岡は武士道を体現するような人物だった。浪士組取締役として謹慎を申し渡された後も、その有り余る時間は、剣の鍛錬に加え、禅学の追及に費やされていた。彼の「剣禅一致」の思想は、このようにして育まれ、これが旧式の武士道のなかに融合されていったのである。
西郷の答えに対し、山岡はこう言った。
慶喜はすでに東叡山の菩提寺(上野の寛永寺)で謹慎し、恭順の意を示している。それでもなお、江戸に攻め入るというのは一体、どういう了見なのか」
これに西郷は、「各地で新政府軍に抗戦する勢力があり、それが事実である以上、慶喜討伐も中止できない」と返している。
しかし、山岡は一切、退かない。
慶喜は、間違いなく恭順の意を示しているのであり、抗戦している者たちは、すなわち慶喜に反逆している者である。ゆえに、彼らの存在と行動は、慶喜を討つ理由にはならない」
さらに畳みかけるように、山岡はこうも語った。
「ここまで礼を尽くして、それでも西郷が礼で答えないのであれば、戦火を交えるほかない。しかし、そうでなれば大乱となり、日本という国家全体が大変な事態に陥るだろう。本来、天子は民の父母であり、非理を追及するのが正しい姿のはず。それにもかかわらず、恭順している臣を討つなど沙汰の外である」と。
西郷は、ここまでの山岡の話を聞いて、ついに反論を諦める。

こうやって考えると、西郷隆盛は恐しい人間である。日本を、泥沼の内戦に導こうとした張本人であって、もしも彼を説得しようと努力した多くの人々がいなかったなら、今の日本はない。
しかし、もう一つ、不思議なことがある。それは、

  • なぜ幕府軍は抵抗しなかったのか?

つまり、徳川慶喜は何を考えていたのか、というわけである。

ところが、江戸城に戻った慶喜は、思いもよらない行動に出る。ここに来ても、抗戦の姿勢を一切、見せなかったのである。幕府に肩入れをしていたフランス公使のレオン・ロッシュは、一月十九日、慶喜に拝謁して再挙を強く勧めた、。だが、慶喜の気持ちが変わることはなかったようである。

東帰の後、仏国公使ロセス(筆者注:ロッシュのこと)が再挙を勧めたることはさきにも話したるが、その時、初めは小笠原壹岐守も陪席せしに、ロセスは言を尽くして再挙を謀るべき由を勧告するにより、予は壹岐守を退席せしめ、鹽田三郎のみを通訳として、ロセスと対座にて、懇懇と日本の国体は他国と異なる所以を説き聞かせ、「されば予はたとえ首を斬らるるとも、天子に向かって弓をひくこと能わず」といえるに、ロセスもついに感服して、「しからば思し召し次第に遊ばさるべし」というに至れり。
----同前書、二七六ページ

もし、慶喜がロッシュの意見に動かされ、抗戦を開始していたら、どうなっただろうか。間違いなく、フランス軍旧幕府軍に加わったことだろう。そうなれば、旧幕府軍の戦力は相当なレベルに達する。しかし、フランスが旧幕府軍に加わったとの報を受けたと同時に、表面上は中立を旨としていたイギリスも、新政府軍に加わらざるを得なかったはずである。
結果として戊辰戦争は、今、我々が知っている規模とは段違いのものとなったことだろう。江戸は焼き尽くされ、主要な都市の多くが戦場となり、おびただしい数の人命が失われたに違いない。

慶喜鳥羽・伏見の戦いにおいて、徹底して非戦論者であった。つい最近でも、柄谷行人憲法9条の実質的な実現という文脈で、武力の放棄ということを言って、いろいろなところで「トンデモ」扱いをされているわけだが、柄谷が言っていることは基本的に、慶喜が言っていることと同じなのだ。
またそれは、WW2における、昭和天皇による敗戦工作と同じだとも言える。戦争の「継続」は恐るべき

  • 内戦

を生み出す。つまり、何十年、何百年に渡る「国民同士の殺し合い」である。慶喜は世間一般には、江戸幕府を滅ぼした、ヘタレといった印象で解釈されることが多い。しかし、その理由がなんであれ、彼の決断によって、日本国民は滅びずにすんだわけである。大事なことは、内戦の拡大は決して終わることのない「地獄」を生み出すのであって、まさに、慶喜の決断が、日本を救った。端的に事実がそうなのである。慶喜はいずれ、歴史によって再評価されるであろう。
慶喜は自分が権力を持ち続けることより、国家の存続を優先した。そのためであれば、薩長の「野蛮人」たちによって、日本が支配されることになったとしても、

  • まだまし

と考えられた。その覚悟において、西郷をしのいでいた。対して、西郷は、一貫して自死を望んでいた。彼は、自殺をずっと考えていた人であり、自分がいつ自殺をするのかを最初から決めていた人なので、

  • 他人を殺しても、なんとも思わない

わけであった。西郷は、江戸の街を本気で、一人残らず殺すことを夢見ていた。その西郷の野望が頓挫したのは、上記の引用にもあるように、山岡鉄舟など、一部の誇るべき日本人たちが彼に立ち向かってくれたからに過ぎない。
なぜ、西郷は恐しいのか。それは、彼や薩長のイギリスの最新兵器をかさに着て、江戸のはるか昔から「平和」に暮らしていた人々に対して、暴虐の限りを尽くすことを行ったから。
ここで、大事なポイントは、江戸時代において、大きくこの時代を見たとき、概ねにおいて「平和」だった、ということなのだ。国民も平和に暮らしていた。その平和を真っ先に破壊したのが、薩長のテロリストたちだったわけで、そういう意味では、ISと変わらない。

徳川慶喜が「大政奉還」を申し出た慶応三年の秋頃から、江戸市中では、長らく高い水準で維持されていた治安が急激に悪化した。具体的に言うと、集団強盗が頻発したのである。狙われたのは豪商や名主たちで、その野蛮な行いは「勤皇」を口実としていたことが特徴だった。
結論から述べると、この盗賊たちのバックにいたのは薩摩藩だった。慶喜の「大政奉還」によって、倒幕戦争の口実を失った薩摩の志士たちは、江戸をはじめとする関東の治安を悪化させることによって、民衆のなかに不安を生じさせようとしていたのである。こうすれば、危機感を持った幕府が自分たちを制圧するため、武力を行使するのではないかと目論んでのことだった。

新政府軍のこのような振る舞いについて、「正史」はまったく触れることがない。彼らが、普通に生活していた庶民を斬殺し、そして罪にも一切、問われることがなかった事実は、闇に葬られてしまったのである。
明治以降、江戸時代の武士は「無礼討ち」と称して、庶民を斬ったことが喧伝された。武士は野蛮な連中で、そのような人々によって統治されていた江戸時代は、「旧き悪しきもの」であると教え込むためである。
だが実際には、江戸時代の武士が、個人の勝手な感情だけで庶民を斬ることなど、例外中の例外だった、無礼討ちは、武士の名誉が極限まで傷つけられたときにのみ、行われるものだった。むしろ新政府のほうこそが、犯罪者を多く抱えて出発したものであることを、記憶しておく必要がある。

自らが「死ぬ」ことを、最初から決めている連中は「同じように、今、平和に生きているリア充も一緒に道連れになるべきだ」と考える。
よく考えてみるべきなのではないか。本当に江戸時代は「暗黒の中世」なのだろうか。だったらなぜ、これだけの長い間、徳川幕府は内戦を起こすこともなく、平和でありえたのか。言うまでもない。庶民がそれを支持したからではないのか。
なぜ私たちは、ここにおいて、ある種の

  • 御用学者的混乱

を起こしているのだろうか。江戸時代が「ディストピア」だと思っている、私たちの「直観」がどこから来たのかといえば、明治以降の「教育」であることは明確だ。教育によって、私たちはいつのまにか、江戸幕府は「暗黒支配」だと思っている。実際に、そういった江戸幕府

  • 悪人

として描いた、時代劇ドラマがたくさん作られたりもした。しかし、普通に考えてみても、そんなに悲惨だったら、江戸の町民は圧政の転覆のために立ち上がるであろう。
つまり、ここでの疑問は、西郷隆盛なのである。西郷は、明治新政府の樹立の後、西南戦争で、新政府に

  • 戦争

を挑んでいる。挑んで、そして負けた。つまり、「朝敵」なわけだ。天皇に刃を向けた。普通に考えて、「こんな人間は重罰に処せられなければならない」となるはずではないか。なぜ、

私たちは、そう考えていないのだろうか?

新政府は、驚くべき対処を行った。明治二十二年(一八八九)、「大日本帝国憲法」発布に伴う大赦で、西郷の賊名を除いたばかりか、正三位まで贈ったのである。これは一体、どういうことなのだろうか。
西郷を非難するのではなく、彼は自分たちの仲間だと公認すること。それが、新政府の採った方策だった。そうすることによって、確かに「反政府の象徴としての西郷」は、時間の経過とともに消滅する。喩えれば、殴りつけるのではなく、抱きしめることで相手を無力化するという、見事な戦略である。
そして同時期に、西郷の銅像を作る話が持ち上がる。普通に考えれば、それは、西郷が「公」の場で着ていた軍服姿の銅像となるのが自然である。しかし、軍服姿とすることには、さすがに政府内で激しい反対があったと伝えられている。そこで、銅像としては異様とするしかない、「着流し」姿となった。また、当時どの錦絵にも描かれていた彼の豊かな髭は、銅像になる段階で、きれいに剃り上げられてしまった。

西郷が、「朝敵」であることは西南戦争という明確な証拠がある。それがありながらも、新政府は彼を重罪にできなかった。
なぜなら、西郷が鳥羽・伏見の戦い戊辰戦争を通して、実質的に明治政府を作った当事者だったからだ。いくら、その彼の手腕が強引だったとしても、その当事者を裁けない。もしも西郷を裁くとなったら、おそらく、薩長が江戸で行なった、さまざまな悪行であり、テロ行為が全て、A級戦犯として、再審にかけられなければならない、といった議論になったであろう。
つまり、新政府はそういった議論を避けたかった。彼ら新政府の「本質」が、西郷とまったく同じであることを認めたくなかった。まさに「近親憎悪」において、西郷と対立できなかった。
そこで、彼ら新政府の連中が行った態度が現代の日本にまで続く、西郷の

  • 萌えキャラ化

であった。西郷は、好戦的戦争ロマン主義者であったわけだが、その彼の「狂気」の人殺しの部分を「隠し」て、渋谷の銅像にしてしまった。まったく、「かわいい」おべべを着せて、狂気の象徴である髭を剥奪されて、「かわいい」おっさんにされてしまった。
これは、西郷の本意であろうかw
そんなわけがあるだろうか。しかし、ある意味において、この手法は現代日本を席巻している。あらゆるものは「萌えキャラ」になる。「ゆるキャラ」になる。というのは、それを肯定し、その動きに抗すことのできない、日本全体の圧力があるわけである。
しかし、逆に言うなら、その「隠蔽」が表に現れるとき、それは「侵略戦争」の様相を示すことになる。隠すことが、平和国家にとって、必要なことだったとしても、「隠蔽」は必ず、抑圧したものの回帰として再び私たちの前にあらわれる。
そのことは、たとえ徳川慶喜による内戦の回避が、どんなに褒められるべき徳行だとしても、その後の日本の侵略戦争を止めることはできなかったし、その最後が、昭和天皇による敗戦クーデターという「英断」を再び、まさに慶喜がそうやったような天皇の英断が起こることなしには止められなかった。
同じことは、何度でも繰り返す。柄谷行人の言う「憲法九条の実質的な実行」も、その未来の戦争に対する「対抗措置」として言われているのであって、上記の流れを考えるにも、いかに「侵略戦争」の

を止めることが難しいかが分かるのではないか。こういった未来の悲劇に対抗しうる運動は唯一、過去の歴史の真実の姿に向き合うこと以外にはない。そのことは逆に言うなら、最初に述べたように、

  • 日本人が日本を「批判」することを<許して>いること

といったような「メタ倫理」的な、国民の徳を大事にしていくこと以外にないわけである...。

明治維新という幻想 (歴史新書y)

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