稲葉振一郎『政治の理論』

例えば、日本の江戸時代の江戸幕府は、基本的には農民たちの生活に関与しなかった。彼らが農民に求めたのは、年貢を納めることで、そのための、農地の大きさの計算などには注意を払ったわけだが。
もしも「国家」が「政治」を行っていたとして、それが江戸幕府の中だけにあったとするなら、では、農民たちの生活に「政治」はなかったということになる。しかし、おそらくそれは違う。
それはいわば「帝国」的な支配であって、つまりは、基本的には農民たち同士の「自治」を認めていたのであろう。基本的に彼らは農民たちの生活に介入しなかった。むしろ、農民は「直接民主制」に近い政治を行っていた。

部落は日本社会の中で自然発生的な、原初的、基礎的な集団である。一度出来上がったら、それは家族にすら先行する。それが現在の状態だ。部落は村や家族と違い部落外しの制裁力を持ち、この制裁は暗黙のうちに部落人が承認し、これに該当する犯罪は、自火、放火、殺人、傷害、窃盗等が部落人を対象として行われた場合、も一つは名誉に対するコードで、部落の恥を世間にさらした場合である。即ち一般的に云えば部落の生存、安危に関係する犯罪の場合だ。部落外しは今日では全家族的でなく、犯行者個人だけに適用される。

きだみのる―自由になるためのメソッド

きだみのる―自由になるためのメソッド

部落では青年期までの小さな盗み、暴行などは警察沙汰にせず、親方が処理してしまう。たとえば少年の窃盗があったとき、部落から縄つきを出しては部落の恥だ、部落の恥は親方の大きな恥だとして事件を揉み消し、金を返済させ、少年を一時、村の後家の家に預けた。
きだみのる―自由になるためのメソッド

原則としては全員会議で、欠席者は不参金を払わねばならない。決議は一般に満場一致の形を取り、部落の家族全体を縛り、従って部落は一本になって動く。多数決は仲間割れを誘うので、部落会では望まれない。

きだみのる―自由になるためのメソッド

おそらくこういった「直接民主制」は、江戸時代に農民共同体では普通のことだったのであろう。というか、はるか太古から、東アジアにおいては、こういった「農民共同体」が無数に存在して、そういった地域で勝手になんらかの

を行っていた。
では、こういった「民主主義」はなくなったのだろうか? おそらくそうではない。それについては、掲題の本でも指摘されているように、例えば、マンション管理組合の合議制とか、企業内での福祉などの、合議制などが現代においても示しているわけで、こういった「民主主義」が、ある一定の局所的な範囲に局限されている、ということなのだろう、と思う。
例えば、「裁判」という制度について考えてみよう。この場合、訴えることは国民の全員の「権利」として許されているわけだが、訴えたら訴えたで、その裁判が「結審」するまでの間、さまざまな「拘束」を余儀なくされる。確かに、裁判においては、そのコンテクストにおいて、非常に細かな調査がされ、事実が究明されるわけで、ある程度の「合理的」な結論が結果することは多くの場合に期待できるのかもしれないが、結局は、こういった「コスト」との天秤にかけられて訴えるかどうかを選択されるものであって、こういった「制度」が、本来的な意味での「民主主義」なのかは疑わしい。
裁判は一つの「民主主義」の代替物ではあるが、万能ではない。あくまで民主主義を補完するものだと考えた方がいい。
しかし、こういった整理をしてみると、ある違和感がどうしても生まれてしまう。それは、「民主主義」の「本来性」に関する問題であって、その典型的な違和感はルソーの社会契約論に現れる。

第一に、ルソーの民主国家の規模は、当時既にヨーロッパにおける相場とりつつあった主権国家のそれを下回り、古典古代的な都市国家のそれに等しいものとなっている。そして第二に、百歩譲って古典古代のポリスをモデルとすることを許容したとしても、ルソーが好むのは世俗的な商業都市アテナイよりも、都市というよりも収容所に近い、兵営国家スパルタであって、「私事を大切とする人々の公的な連帯」とは相容れないところが大きいのだ。それは人民が心を一つにし、団結して共同事業にあたることを要請するだけではない。その一人ひとりに対して、その生において私事よりも公事、この国家事業の方を優先させることを求めるのである。
それゆえにこそ、ホッブズやロックの精神は、社会契約論それ自体の後継者であるルソーによりは、この理論自体の批判者であるヒュームやスミスの方にこそ受け継がれているとさえ言える。そしてその系譜の上に、今日我々が自由民主主義(liberal democracy)と呼ぶ枠組みはある。

こういったルソーの社会契約論がヘーゲルの国家論であり、ナチス・ドイツ独裁国家に繋がるような、全体主義との親和性を指摘する議論は、ハンナ・アレントに始まり、多くの議論が存在してきたわけであるが、上記の「きだみのる」による、日本の農村研究の結果と比較をすると、むしろ、ルソーが言っていることは、こういった農村社会における、なんらかの「合議制」について考察していたのではないか、と考えてみると、さまざまな点において、符合してくる。
掲題の著者も指摘しているように、明らかに、社会契約論と言っても、ホッブズ、ロックが考えていたもの、その後継であるはずのルソーが考えていたものが違っている。このことは、決定的に重要なのだが、ではこの差異とは結局のところなんなのか、というのが問題となる。
そこで、この前、このブログで考察した一つの枠組みにあてはめてみたい。

後者の不可知論型社会契約論が、上記の引用で、アダム・スミスがその系譜として参照されているように、ここには、国家の「関心」とデタッチメントな「個人」の存在が「前提」されている。それは、経済活動を考えてみればいい。さまざまなイノベーションが、一体、どこから生まれるか? それを国家は「予測」できない。それらは、勝手に、市民の「自由」な活動が生成する。大事なポイントは、そういった「イノベーション」を、独裁者の「独我論」という自我は、まったく、想定さえできない、ということなのだ(まさに、そういう意味で、不可知論だ)。
独我論的な「私」を「成長」させるのは、まさに、私が予測をしていない「外部」から現れる。それはそれを

  • 許す

政治制度が、その制度の機能ゆえに「生み出す」わけである。
対して独我論型社会契約論においては、その「一般意志」の「困難さ」が、ある種の「市民宗教」を要請する。

また理論、思想のレベルにおいても、キリスト教を含めた既存宗教に政治、世俗国家に対する敵対者として警戒を緩めなかったルソーは、その警戒ゆえにこそ、社会契約に基づく共和国は、市民たちの間に連帯感を醸成する「市民宗教」を必要とする、と論じたのである(『社会契約論』、他)。有徳の市民を育てるためには、世俗的なそれをも含めてここで言う広義の----「彼岸」にはかかわらなくとも、人々を共同性そのもの、祖国そのものを愛するように仕向ける----「宗教」が必要である、とルソーは考えたのだ。繰り返して恐縮だが、このルソー的な「市民宗教」の役目を果たすものとして、一九世紀以降のナショナリズムは登場した。ナショナリズムにせよ、あるいはマルクス主義を筆頭とする社会主義にせよ、このような意味での「世俗宗教」だったの言える。

このように整理をすると、ルソーが何を考えていたのがよく分かるのではないか。現代における、上記で例をあげた、マンション管理組合にしても、企業社会にしても、一見すると、なんの繋がりもない、無味乾燥なビジネス・ライクな関係に見えたとしても、実質的には、そこになんらかの(抽象的な)

  • 世俗宗教

が媒介している、ということが分かるのではないだろうか。分かりやすい方としては、田舎の各地域自治体が行っている「祭り」という行事が典型的であるが、各企業内においても、なんともいえない、独特の「文化」という

  • 世俗宗教

が媒介しているように思われる。ルソーの慧眼はここにあるのであって、なんらかの「直接民主制独我論型民主主義」は、こういった

  • 抽象的な宗教

が各参加している主体の相互扶助的な様相を正当化している。
大事なポイントは、こういったルソーの「構想」が、不可知論型民主主義と独我論型民主主義を「媒介」させようといった「戦略」を内包させていたのであろう、と思われることである。
例えば、こういった「世俗宗教」としての「イメージ」は、さまざまなサブカルチャーにおいて、現代においても再現されている。分かりやすいアイコンが「天皇」であるが、三島由紀夫の構想した「アナーキズム」な文化論においては、ただ「天皇」を肯定する限りにおいて、あらゆる日本のサブカルチャーはその「存在」を認められてるといった、一種の

を提唱したわけだが(明らかに、こういった三島由紀夫の文化アナーキズムの態度が、現代日本における、ラノベから漫画、アニメ、さらに、MAD動画や同人誌などの二次創作に至るまでの「あらゆる」サブカルを、なんらかの意味で、社会的に肯定する現在日本のリベラル革命を結果している)、そういった条件がついてはいるが「あらゆる」この日本で生まれた「文化」を肯定するという意味では、不可知論型民主主義であるが、そういった物語を介した一種の「世俗宗教」としての機能をもったものして、人々に関係していることを意味している。

三島のいう「全体性」とは、この文化の「無差別包括性」、あえて言えば、文化アナーキズムのことである。これらの一見任意に並べられたかに見える具体例にもエロスとタナトスが基準として流れていることはいうまでもない。三島はこの基準を満たすものすべて文化として容認する。そこには高尚と低俗の区別もなければ、価値序列もない。それは既成の左右イデオロギーをも超越してしまう。「日本」なるもの、ひいては彼の考える「天皇」が透かし見られれば、それでよいのである。三島はこれを「空間的連続性」とも呼んでいる。文化が歴史的に連綿とうち続いてきたことが「時間的連続性」であるとするなら、この概念で強調されているのは、あらゆる階層あらゆる領域にまたがる普遍性偏在性である。そのかぎりで三島は徹底的に「民主的」でさえある。

憂鬱な国/憂鬱な暴力 ― 精神分析的日本イデオロギー論 ―

憂鬱な国/憂鬱な暴力 ― 精神分析的日本イデオロギー論 ―

三島にとって、その表記の類似にもかかわらず、「文化の全体性とは、左右あらゆる形態の全体主義との完全な対立概念である」。三島によれば、文化はその貴賤を問わずすべてを含むものであったが、あらゆる形の政治的全体主義は、自らの「全体」を求める中で、豊穣な文化の全体性に嫉妬し、それを規制管理する。三島によれば、この全体主義の宿命的性格は共産主義を含むすべての全体主義的傾向をもった政治形態にみられるが、それはさらにあらゆる国家的規制のあるところに認められることになる。言い換えれば、三島にとって「政治」や「国家」は多かれ少なかれ文化的全体性ひいてはその象徴としての天皇の敵対者として現れざるをえないということである。そういうところから次のような発言も出てくるのである。

明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによって(......)時間的連続性を充たしたが、政治的無秩序を招来する危険のある空間的連続性には関はらなかつた。すなはち言論の自由には関はりなかつたのである。政治概念としての天皇は、より自由でより包括的な文化概念としての天皇を、多分に犠牲に供せざるをえなかつた。(全集35 p.47)

これは一見あたりまえの史実を語っているだけのように見える。しかし、よく見ると、これは明治以降の国家体制に対する根本的な拒否にほかならない。それは文化的アナーキズムとそれをイデア化に依拠したあらゆる政治形態の拒否であり、原理主義を超えた原理主義、あるいはユートピアアナーキズムである。あの東大全共闘との討論における「天皇を店頭と諸君が一言言ってくれれば、私は喜んで諸君と手をつなぐのに」(「討論 三島由紀夫 vs. 東大全共闘」全集40 p.501)という一見無節操な発言も、こうした理論的背景を踏まえれば、けっしてその場しのぎのリップサービスなでではなかったことがわかろう。
憂鬱な国/憂鬱な暴力 ― 精神分析的日本イデオロギー論 ―

掲題の本は、私なりに整理をさせてもらえば、この不可知論型民主主義と独我論型民主主義の「矛盾」がさまざまに現代の「政治」状況において現れている、その問題を考察するような体裁を示しているわけで、それぞれについての「解決」がそんなシンプルな様相を示せない状況において、その「複雑さ」を表しているのであろう。
不可知論型民主主義の問題は、オキュパイ・ウォールストリートがよく表していたように、99%対1%の所得の格差を生み出してしまう。つまり、逆説的であるが、経済が「成長」すればするほど、国民は

  • 貧乏

になる。お金をもっているという意味が、1%ということであって、しかしそれって、統計学的には「無視できる」ということですからね。
これに対して、おそらく、三島由紀夫はなんらかの「文化的共産主義」を考えていたのではないか。不可知論型民主主義の「国民の絶対的窮乏化」を、三島はサブカルなどの「文化」的共同性が、独我論的民主主義を媒介して、その「共感」による「富の分配」を実現する、といった構想だったのかもしれない。
例えば、アメリカにおけるトランプ政権の誕生は、上記における不可知論型民主主義に対して、独我論型民主主義が優位に立ったということを意味しているわけで、トランプはIMFを脱退して、徹底した保護主義を目指すのかもしれない。トランプが

  • 国際貿易のルール

を無視して、それぞれの国との力関係に応じた、二国間ルールをトランプが目指すとき、しかし、それがなんらかのアメリカ国内の「民主主義」的な要望に関係した

  • 正義

に関係したものとして現れるとき、不可知論型民主主義に関係した「ルール」を破壊することで、独我論型民主主義の「危機」を救おうといった目論みとして解釈されるのかもしれないが、こういったアプローチはどこまで国内の中産階級の没落に抵抗できるのだろうか。トランプの大統領就任式が示しているように、彼の態度は国民を「分断」に至らせるもので、「糾弾」型の政治運動がおそらく、アメリカ政治の混乱が続くことを避けられない。そう考えたとき、アメリカの不可知論型民主主義と独我論型民主主義の「矛盾」が解決していくことは、そう簡単には見込めないのであろう...。

政治の理論 (中公叢書)

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