実践理性とは何か?

アニメ「TARI TARI」という作品は、見る人にとても内省を促す作品になっている。
このアニメの前半は、なぜか主人公の坂井和奏(さかいわかな)が非常に生きることに積極的でない印象を与える。それが一種の「謎」となって、作品は進む。
しかし、その理由は作品が進むごとに、次第に明らかになる。
彼女の母親は、知る人ぞ知る音楽家であったが、和奏が高校受験を受ける当日くらいに、急死する。不治の病にかかっていたわけだが、なぜか彼女は和奏にそのことを告げることを断固として拒んでいた。
和奏は母親が通っていたのと同じ高校の音楽科に合格するが、音楽に対するモチベーションを失う。普通科に転入し、母親の遺品であるピアノさえ、捨てようとする。
和奏は母親の死と共に、一切の音楽へのモチベーションを失う。音楽にふれることさえ忌避するようになる。おそらくそれは、自らの「態度」に関係していた。ちょうど反抗期とも重なっていたこともあり、死の直前まで母を言葉できついことを言っていたことも重なって、母親の死が目前に迫っていたのに、音楽などという

  • どうでもいい

ことにかかずらっていた自分を責めたのであろう。
しかし、他方において、彼女にはある疑問がずっとあった。なぜ母親は自分にターミナルケアのことを教えてくれなかったのか?
人間の死には5種類ある。

  • 自死 ... 自らを殺めて死ぬこと
  • 他殺 ... 他人が殺めて死ぬこと
  • 急性早生死 ... 寿命になる前に事故などで急に死ぬこと
  • 慢性早生死 ... 寿命になる前に病気などで、ある程度の期間の経過の後に死ぬこと
  • 自然死 ... 寿命になり死ぬこと

である。ここでの問題は4番目の「慢性早生死」となるであろう。和奏の母親は自らが不治の病であることに次第に気付いてから、実際に亡くなるまで、それなりの時間があった。ここでの問題は、「自死」と「慢性早生死」は、まったく対照的な様相を示すことである。

  • 自死 ... 基本的に認められるべきではない。なぜなら、死んでしまっては、その選択が自分の納得がいくものだったかを後で「反省」することができないから(他者がマインドコントロールをしている可能性を排除できない)。
  • 慢性早生死 ... 徹底して「その人がやりたいようにさせる」べきである(自死を除いて)。なぜなら、そのことが人間の「尊厳」に関係するから。

一つの考えとして、和奏の母親が和奏に自らの死が迫っていることを告げなかったことは問題なんじゃないのか、と考えるかもしれない。しかし、問題は和奏の母親の「意志」なのだと思うわけである。
私は原則として、ターミナルケアにおいて、本人が「やりたい」と思う意志は「全て」認めるべきだと思っている(自死を除いて)。それは「実践理性」に関係する。クリスティン・コースガードも言うように、実践理性は

に関係する。人間は自らの死を前にして、最も重要視するのは、「自分が他者に発しているメッセージ」を曖昧にしたくない、ということなのだ。死を目前にして人は、自分が今まで生きてきた間に回りに発していた「メッセージ」を、確実にしたい、と思うわけでえある。もちろん、そんなことをしても、もうすぐ死ぬのだから「本人」には意味のないことだと思うかもしれないが、それは違う。なぜなら、それが実践理性だからだ。実践理性は、

に関係する。つまり自分が「ずっとやってきたこと」に関係する。つまりは、自分が今までやってきたことは「間違っていなかった」と思いたいわけである。ターミナルケアにおいて人間は、「人生の総決算」を行う。もう死ぬんだから、あらゆるものに自暴自棄になるんじゃないのかと思うかもしれないが、だったら「とっくの昔」にそうなっているはずなのだ。つまり、そうなっていないということ自体が、その人が

  • 実践理性

を生きてきたことの証明にもなっているわけで、多くの場合、それほど人間は変わらない。
なぜ和奏の母親は、和奏に自らのターミナルケアを告げなかったのか。それは彼女と和奏の今までに関係している。和奏の母親と和奏は、ずっと「楽しく」音楽をやってきた。つまり「それ」が大事だった。実際、和奏の母親の音楽活動はそういうものだった。つまり、それが彼女のアイデンティティだった。つまり、彼女は最後に自らの「悲しみ」んでいる姿を、和奏に残したくなかった。つまり、「それ」が彼女の音楽の「アイデンティティ」だと和奏にメッセージしたくなかったのだ。

教頭 坂井さん。
和奏 これ、教頭先生の楽譜ですよね。
教頭 そうです。合唱コンクールの後、お互いの楽譜にサインして交換したの。まひると一緒にいると、自分にも音楽の才能があるような気がして。でも。私にはまひると同じ音楽の道を歩くことはできなかった。くやしくて、恥かしくて、それでも自分では捨てられなくて。
和奏 母が捨てないでって言ってるんだとおもいます。この前、遺品を整理していたら出てきたんです。お母さん、この歌をいつも楽しそうに歌ってて。
教頭 まひるはいつも楽しそうで、それがくやしくて、イライラすることもありました。
和奏 ちょっと分かります。なんでもできて当たり前って感じで。わたし、ちゃんと音楽の勉強がしたくて、今年は無理かもしれないけど、そういう大学に生きたいんです。卒業してからも、いろいろ相談に乗っていただけませんか。
教頭 わたしは音楽教師ですから。
(アニメ「TARI TARI」第13話)

和奏は次第に母親の意図を理解するようになり、また、音楽活動を始めるようになる。母親と一緒に作っていた曲の作成を一人で完成させ、母親がどうやって音楽を作っていたのかを理解するようになる。
こういった和奏の変化は、基本的にはフロイトの言う「抵抗」をあらわしているであろう。母の死の直後は、彼女の音楽科を目指した理由の大きな部分が「母親」に関係していたため、

  • 母親ロス

のような放心した状態になったし、自らへの自責の念もあって、このまま音楽を続ける理由を見いだせなかった。しかし、次第のその母親の死の間際の彼女の行動の「理由」が分かっていくことであったり、母親と一緒に作りかけていた曲を彼女一人で完成させる過程で母親の作曲方法を理解していく過程で、今度はその母親が彼女に伝えようとしたメッセージをもう一度確かめるような形で、母親と同じ音楽の道を目指そうとしていく。まあ、親子鷹ということなのだが、作品の最初の方では、徹底して母親や音楽の話を忌避していた(フロイト的な意味で拒否していた)わけであるが、上記の引用にあるように、作品の後半では、次第に母親の存在は

  • (自らの自我とは切り離された)対象

として扱えるようになってくる。それは、基本的には母親が彼女に「伝えようとしたメッセージ」についての迷いがなくなっていったからなのであろう。それは、母親の自らに対する「愛」の揺がなさを理解したということでもあるし、その延長で生きようと決めた彼女の

  • 実践理性

が、そういった「冷静さ」を結果していった、と理解される...。