人生の意味

カントの言う「実践理性」という言葉は、多くの人にさまざまな「考察」をもたらすわけであるが、なぜそうなるのかと考えると、いわゆる一般的な「科学」的な手法と違っているから、ということなんじゃないかと思っている。
一般的な科学の手法は、基本的にまず、

  • クローズドな対象

を定義して、その「内部」の動きを記述する。つまり、対象の「境界線」がはっきりしているので、言わば「独我論」的にやれるわけである。
それに対して実践理性というのは「反省」する「理性」のことなのだが、問題はその「境界線」がよく分からない、というところにある。言うまでもなく、なんらかの「対象」について考えるときは、常にそれは「局所的」であり「境界線」があり、科学の対象である。しかし、「人生の意味」といったことを考えようとしたとき(それは間違いなく「実践理性」の対象であるわけだが)、うまく「境界線」を引けないのだ。
私は今生きている。しかし、あと何百年と年月が経ったとして、私が今生きているということが、その時になって、なんの意味があるだろう? しかし人生の意味とは、そういうことなのだろうか? ネーゲルは次のように言うことで、こういった態度を批判している。

......人生は、それぞれの活動が後につづく行為を目的として持つような活動の連続から成り立っているのではない。正当化の鎖は、人生の内部で繰り返し終局に達するのであって、過程が全体として正当化されるかどうかは、そうした終局点の終局性とは関係もない。頭が痛いときにアスピリンを服用するとか、好きな画家の個展を見に行くとか、子どもが熱いストーブに手を突っ込むのを止めるといったようなことを理にかなったものとするために、更なる正当化が必要とされることはない。(Nagel[1971]12:邦訳 19)

つまり、終わりよければすべてよし、というかたちで人生の終わりによって人生のそれぞれの活動が正当化されるわけではないのである。
Kyoto University Research Information Repository: ‘Why Be Moral?’問題の再検討

私たちは日常において、それぞれのコンテクストに応じた、ある種の「満足」を感じて生きている。そういう意味では、私たちの人生は「細かな目的」で覆われている、と言うこともできるわけで、一つ一つがなんらかの「人生の意味」に関係していると解釈できる。そのグラデーションを理解したとして、上記のネーゲルによる「消極的」な擁護に対応した

  • 積極的な擁護

を考えるとするなら、どういった説明になるだろうか。

ノージックによれば、人生の意味とは限界の超越(Transcending Limits)だという。

人生の意味を見つけようとする試みは、各個人の人生の限界を乗り越えようと努める。人生の限界範囲が狭ければ狭いほど、生は意味をもたないことになる。(Nozick[1981]594: 邦訳下巻 462)

たとえば、記憶健忘症の生や刹那的な欲望に従う生は最も狭い人生だという(Ibid.)。そして、長期的な目標は当人を超えたもの、その人の狭い関心を超えたものにまで広がることはないという(594、邦訳下巻 463)。ここで、ノージックははっきりと自己利益を超えた人生の意味を考えている。

たとえば、自分の人生計画を総合する一貫した目標とは、ただ自分の人生の快楽の総和を最大にする、といったことになろう。こうした人生について尋ねてみよう。「でもそんな生き方が結局何になるのだろう。どんな意味をもつのだろう。」ある人生が意味をもつためには、それが他のもの、つまり、自分を超えた別のものや価値とのつながりをもたなくてはならない。(Ibid.)

この点で、新しい作品の創造や、道徳はともに、「自分を超えた別のものや価値とのつながり」をもつものとして、人生に意味を与えるものだと説明できる。
Kyoto University Research Information Repository: ‘Why Be Moral?’問題の再検討

上記の引用は痛烈な「功利主義批判」となっている。私たちはさまざまな「効用の最大化」を実行して、そこそこの「満足」のようなものが得られたとして、さて。

  • でもそんな生き方が結局何になるのだろう

つまり、「そもそも論」が後から私たちに何かを迫ってくる、と言っているわけである。そもそも論を始めたら、なんか、あらゆることが「どうでもいい」ような気もしてこなくもない、というのが先ほどのネーゲルの引用が反論していた相手の主張だったわけで、それに対応して、ノージックはまったく「功利主義」の「ルール」に反しているかのように

  • 自己の「利益」を「超えた」利益

のようなことを言いださざるをえなくなっている。いくら、「功利主義」的な利益の「最大化」をしても、

  • でもそんな生き方が結局何になるのだろう

といった、まるで鬱状態のような、メランコリーが何度も何度も反復してくる。そうすると、そこで言っていた「功利主義」的な利益の「最大化」という、上記のネーゲルの言及する、文脈に応じた「人生の意味」に対する

  • 反省

が始まってしまう。つまり、一切のアップセットが行われかねない。完全な無意味化はないとしても、幾つかの配置転換は容易に起こりうる。しかし、それを「強いる」ものは、一体なんなのか? 私は間違いなく、「功利主義」的な利益の「最大化」という

的な「計算」を

  • うまく

やったのではなかったのか? だとするなら、なぜこんなふうなメランコリー(鬱状態)に悩まされなければならないのか?

ただし、メッツは限界の超越だけでは不十分だという(Metz [2002] 799)。ある種の知識は人生を有意味にするが、限界の超越ではこの点を説明できないという。また、人が正しいと考えるものを擁護しつつ高潔さを示すことで人生に意味を与えることも、限界の超越では説明できないという。
そこでメッツはゲワースの議論に注目している。ゲワースは、著書『自己充足』(1998)のなかで、ノージックの言う自分を乗り越える価値のことを「スピリチュアルな」(spiritual)価値と呼んでいる。

こうした追及を「スピリチュアルな」追及と呼ぶ根拠はまさに、人が自身を乗り越える、すなわち自身にだけ向けられた関心を乗り越えることにある。そのとき、人はいっそう広い道徳的、知的、そして美的な文化の要求を認めるだろう。(Gewirth [1998] 177)。

自身を乗り越える要求には、「我々が認知的な卓越性の程度を見分けることを可能にし、それによって通常の限定された感覚経験の範囲によって定められた限界を乗り越えることを可能にする」ような認知的卓越性の基準が含まれる(178)。メッツはこの卓越性を「理性」(reason)と解説している(Metz [2002] 800)。そして、メッツによれば、ゲワースのアイデアは、限界の超越では説明がつかなかった知識が人生に意味を与えるということを説明するという。引用のとおり、理性の行使は「知的な......文化の要素を認める」からである。さらに、こうした理性の行使は、単に自身を乗り越えることだけでなく、「広い道徳的文化」を認めるものとして人格の高潔さが人生に意味を与えるということも説明するという。
しかし、メッツは限界の超越と同様、理性の行使に対しても説明できない人生の意味の側面を見出す。理性の行使はある時点での行使しか考慮しないため、人生全体の様相をつかみきれないという(Ibid.)。メッツはまた、理性の行使では、人生の意味は積極的に自らが獲得するものであり、受動的に与えられるという側面を含むという点が説明できないという問題点も指摘する(800-801)。受動的に与えられるという側面とは、たとえば、善行をした人の人生は報われる分だけ有意味になるという側面である。
メッツの挙げるこの二つの問題点は、理性が人生全体で行使され、受動的な側面をもつことを認めることで克服できるように思える。少なくとも、実践理性はそうした側面をもっている。
Kyoto University Research Information Repository: ‘Why Be Moral?’問題の再検討

カントの「実践理性」は、言わば、科学が科学の対象を「発見」していく過程をどこか含んでいる。一般に私たちが「科学」と呼ぶ場合は、最初から、ここで「何」が話し合われているのかの「対象」が「自明」になっていて、その「対象」の

  • クローズド

な相対関係にしか、すでに議論の範疇とされていない。対して、実践理性は、絶えず私たちに

  • でもそんな生き方が結局何になるのだろう

といったアップセットを私たちの内面のどこか分からないところからの「呼びかけ」にトリガーされて始まる思考なわけで、なんだか分からない「オープン」な性質をもっている。
そのことは、上記でとても重要な形で指摘されている。そもそも、功利主義の「計算」は、その時点の「計算」なのであって、私たちが自らの人生を終えた時点での「計算」ではない。そうであるなら、当たり前であるが、それが「人生の意味」の答えでありうるはずがないのだ。

  • 理性の行使はある時点での行使しか考慮しないため、人生全体の様相をつかみきれない

そういう意味では、実践理性は非常に奇妙なところからの、私への「呼び掛け」のような形で現れる、と考えることができる。まるで人生の終わりを迎えようとしている、未来の私が今の私に向かってタイムスリップして呼びかけて来ているかのように、「聞こえ」たりする、というわけである。そして、この実践理性の運動が「オープン」であるということの意味は、その「呼び掛け」が

  • 外部

からのものと、基本的に区別できない、というところにあるのではないか。

  • 理性の行使では、人生の意味は積極的に自らが獲得するものであり、受動的に与えられるという側面を含むという点が説明できない

私たちの「科学」は、こういった「野蛮に突き進んでいく」という、オープンな運動について、うまく説明をできない。それは科学「自体」の自己運動の秘密を問うようなものであり、なぜ科学は発展するのか、と問うようなものであり、どこか自己言及的な性質さえ感じてしまうわけで、実践理性の問いはそういう意味では、けっこうギリギリのところまで人間の活動を問うことが可能なのか、といったチャレンジだとも考えられるであろう...。