ポストモダンのゲーデル不完全性定理という「黒歴史」

(エイプリルフールにふさわしいネタじゃないですかねw)
例えば、数学的帰納法というのがある。R(1)が成立する。R(n)が成立するとき、R(n+1)が成立する。ならば、すべてのR(n)が成立する。これは一見すると、なんの問題もないように思うかもしれない。しかし、よく考えてみると、なにか気持ち悪い感じがしてくる。というのは、このように書いたからといって、別に、すべてのR(n)が成り立つことを確認したわけではないからだ。つまり、これは

  • 自然数の定義になっているのか?

がよく分からないのだ。つまり、自然数は「形式化可能なのか」が怪しいと言っているわけである。自然数は定義できるのだろうか? もちろん、数学的帰納法が「定義」と考えるなら、自然数を定義していると言えるのかもしれないが、それが怪しいと言っているのだから、それで自然数が根拠付けられるかどうかなどというのは、トートロジーにほかならない。
しかし、この疑問がいわゆる、ゲーデル不完全性定理なんだなと思ってみると、それほど違和感はなくなる。なぜそういった一見すると、直観に反しているかのように思われる定理が導かれるのかと考えるなら、ようするに私たちは自然数の形式化に成功していない。つまり、自然数を定義できていないから、ということになる。
ある可算無限があったとする。もう一つ、ある可算無限があったとする。ここで、

  • この二つの「無限」が「からみあう」無限を考えたとき、一体どのようにしてこの二つの無限が一つに重なるのか

と問うたとき、一つだけ言えることは、「その法則をうまく<数えられない>」というところに本質がある。つまり、無限と無限がどのようにからみあうのかを、一体だれが想像できるだろうか?
なぜこのようなことになるのだろう?
例えば、バナッハ・タルスキーの定理というものがある。スイカを有限個に分割して、それぞれを有限回の回転と平行移動をすると、なぜか「地球」になる。
馬鹿な、と思うかもしれないが、そもそも

  • どのように「有限個」に分割するのか、その分布がまったくもって、分からない。

もはやそれは、私たちが考えるような「図形」ではない。まさに、ルベーグ積分が示しているような、わけのわからないような図形だとしか言えない(ルベーグ積分の定義を思いだしてもらいたい。ここでは「二つ」の無限操作が介入している。しかし、それゆえに、「ゼロ可測な集合」というよく分からないものがあらわれる。さて。ゼロ可測集合は、確率論では「ほとんど無視できる」というわけで、確率ゼロとなるわけだが、これはなんなのか?)
つまり、さまざまな「無限」があったときに、それら同士がどのように「干渉」しあうのかが、まったく「思い描けない」わけである。
私に言わせれば、ゲーデル不完全性定理とは、この程度のことにすぎない。
ところが、いわゆる

と呼ばれる哲学集団たちは、驚くべき「トンデモ」理論を主張する。
ところで、東浩紀先生の処女作となる、『存在論的、郵便的』という本には驚くべき文章が次々と現れる。この本は、批評空間という柄谷行人浅田彰が関わった雑誌に連載されたということなのだが、彼の連載の終了とほぼ同じ頃にこの雑誌は終了している。
さて。何が驚くべきことなのか。言うまでもない。

についての、どう考えても意味不明な「トンデモ」である。

何故ならそれは内容的にも時期的にも明らかに、数学史においてプリンキピア・マテマティカ体系(論師実証主義の数学的対応物)の内在的批判として登場した。三一年のゲーデル不完全性定理に対応していたからである。ハイデガーゲーデルもともに、メタ / オブジェクトのレヴェル分け、いわゆる「ロジカル・タイピング」の無矛盾性(consistency)を破る構造を発見した。その構造は前者では「実存論的構造」と、校舎では「ゲーデル数」と呼ばれている。

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

私たちはこのハイデガーの主張を、今度はクラインの壺の安定化装置について語られたものと解釈できるだろう。呼び声(ルフ)は管と円錐部分を循環し、底面=世界のゲーデル的亀裂をより高次で「縫合するsuturer」。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

いやー驚くべき議論ではあるが、ハイデガー実存主義は、東浩紀先生の中では、完全にゲーデル不完全性定理

  • 同じこと

を言っているのであって、そしてそのクラインの壺を使ったハイデガーの実存の「心理学的救済」は、なんと、ゲーデル不完全性定理をある意味において「縫合(=解決)」してしまう。どうも、東浩紀先生はゲーデル不完全性定理を「解決」してしまった、ということのようなのである。まあ、精神分析的な意味で。
やれやれ。
結局この意味不明なやりとりはなんなのだろう? まあ。とりあえず前半の彼の主張がどこにポイントがあるのかを注意すると分かってくる。

一般に脱構築として理解され、柄谷が結局はゲーデル問題に等しいと述べた戦略、つまり、オブジェクトレヴェルとメタレヴェルとのあいだの決定不可能性により述べた戦略、つまり、オブジェクトレヴェルとメタレベルとのあいだの決定不可能性によりテクストの最終的審級を無効化するというその戦略は、実は「脱構築」の半分でしかない。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

どうも、この東浩紀先生の議論はこういった柄谷のゲーデル「理解」を前提にした、いや、むしろそこを中心として

  • 柄谷を批判する

意図をもって書かれていることが、次の箇所から分かる。

すでに六〇年代からデリダは、彼自身が提示したさまざまな逆説的観念、例えば「差延」がきわめて否定神学的に見えることを十分自覚していた。ただしここで「否定神学」とは、肯定的=実証的(ポジティブ)な言語表現では決して捉えられない、裏返せば否定的(ネガティブ)な表現を介してのみ捉えることができる何らかの存在がある、少なくともその存在を想定することが世界認識に不可欠だとする、神秘的思考一般を広く指している。デリダ自身がそのような広い意味で使っている)。『声と現象』や『グラマトロジーについて』第一部で示された脱構築は、まだおおむねゲーデル脱構築でしかない。
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて

ようするに、柄谷は東浩紀先生に言わせると「否定神学」に陥っていて、この問題を免れていた人こそ、ジャック・デリダなんだ、と言いたいようなのである。
東浩紀先生がこの本で強調している「郵便的」というのは、一種の「確率」の話だと解釈できるだろう。しかし、そのことと上記のゲーデル不完全性定理ハイデガーは同じことを言っていただとか、それによって、ハイデガー精神分析的な(クラインの壺的な)解決が、ゲーデル不完全性定理の「解決」と同等なんだ、みたいな、ここでの一連の議論は果して、なんなのだろう?
なんの冗談なんだろうか?
というか、なんでトンデモ学会や、ニセ科学批判や、ソーカル問題の人たちは、この東浩紀先生のトンデモ「はったり」を問題にしないのか。まあ、それもそうか。わざわざ、この本だけ文庫にもできていないくらいなわけだし、そんなものなのかもしれない...。