独断と偏見の日常系アニメ10選

アニメ「けものフレンズ」も終わって、このアニメは一つのエポックメイキングになったのだろうな、とは思っている。
もちろん、CGアニメとして、細かい「しかけ」のようなネタが多く描かれた、少しずつ謎が開明されていくようなスタイルは、興味深くはあったが、そういったことというより、少し前にも書いたが、艦これ、ガルパンけもフレと、一般の生活にはほとんど関係ないような無駄知識がふんだんにとりこまれていて、つまりは、そういったスタイルが一つのアニメのスタイルを

  • 拡張

させていることに興味深く思ったわけである。
私がずっと不満だったのは、いわゆる「ゼロ年代」系といいますか、つまりは

  • 哲学畑

の人たちが、ある種の「世界の単純化形而上学化」こそが「アニメ」なんだといった形で、観念的に要約し、監督を英雄化、芸術化して、他の多くの彼らが「ノイズ」として差別するアニメとの

  • 格差

を強調するスタイルであって、例えば、うる星やつらビューティフルドリーマーや、AirCLANNADやその監督を神聖視したような批評が多く見られるわけであり、確かに、こういった作品がおもしろくないと言いたいわけではないが、しかし、そういった

  • 要約

的な解釈は言うほど重要なのか、といった印象をもたずにいられない。つまり、そういった抽象的、メタ的な「要約」が逆にその作品そのものの「多様性」をノイズとして除去してしまっている。
もっと素朴な「ガラパゴス」的なもとで、アニメはいいのではないか。
例えば、近年「日常系」ということが言われる。こういった作品にはもちろん、なんらかの主張をしているものもある。しかし、大事なポイントは上記の「哲学畑」の人たちは基本的に

  • インテリ

だということなのだ。つまり、プチ・ブルジョアなのであって、そういった価値観で作品は最初からフィルタリングされている。彼らの「進学校」的な価値観が最初にあって、そのお眼鏡にかなったものしか、批評の対象として浮かび上がらない。
そういう意味で、彼らは大きな「間違った」メッセージを人々のアニメへの偏見に寄与していると思っている。
そこで、今回は私なりにこの「日常系」アニメをセレクトすることで、まったく違った「評価」の方向を示したいと思っている。

  1. みなみけ(2007)

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南家の三姉妹、長女の高校生の春香、次女の中学生の夏奈、三女の小学生の千秋の主に家庭での風景を中心にしておりなす作品。なぜか、親の姿があらわれないし、作品の中でふれられないが、親戚のタケルはときどき登場する。
興味深いのが、次女の夏奈(かな)の存在であり彼女からの「視差」で、三姉妹という独特の磁場の中で、奔放かつ自由な姿が描かれる。

  1. かなめも(2009)

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幼なくして両親を亡くした中町かなは、おばあちゃんに育てられていたが、そのおばあちゃんが亡くなり、この世に天涯孤独になる。途方にくれていると、近くの新聞専売所で住み込みのバイトをさせてもらえることになり、そのまま中学校に通うようになる。作品は、そこでの同じ新聞配達のバイトを住み込みで行っている仲間との交流を描く。
たんたんと進む話の中で、中町かなの、幼なくして、苦しい境遇にあると思われるのに、前向きに生きる姿にはっとさせられる。

  1. とある科学の超電磁砲(2009)

東京都の3分の1を占める「学園都市」。そこでは、学生による超能力の開発が行われていて、子供たちはその能力に応じてレベルによって分けられる。その中でも、レベル5の最高ランクをもつレールガンと呼ばれる少女、御坂美琴(みさかみこと)を中心に繰り広げられる物語。
このアニメ版の特徴は、レベルゼロという「能力」がないと判定された少女の、佐天涙子(さてんるいこ)が非常に重要かつ中心的な位置から、この世界が眺められているところにあり、彼女の「低学歴」でありながら、前向きに生きようとする姿が際立った「視差」を描いている。

  1. 夏色キセキ(2012)

下田市に住む逢沢夏海、水越紗季、花木優香、環凛子の中学生4人組は小学校からの親友でいつも一緒にいた。紗季が東京に転校する話でお互いの関係がギクシャクしたとき、彼女たちは神社の御石様にお願いをすることで、空中浮遊を体験することになる。
この作品のポイントは、凛子というとてもおとなしく、いつもうしろにいる彼女の優香に向ける、控え目だが、だれよりも熱い思いをもった視線だと思う。

  1. キル・ミー・ベイベー(2012)

ごく普通の高校に通う「殺し屋」のサーニャと、その友人の折部やすなが学校を中心に、次々と繰り広げる日常(ギャグアニメ)。
この折部やすなという少女の、次々と行う「いたずら」は、このバカっぽさと共に、私たちの小学校くらいの頃の自分たちを思い出させてくれるような、なんともいえない郷愁を感じさせてくれる。

  1. TARI TARI(2012)

白浜坂高校の合唱部の活動を描く。
母親を失い、音楽科をやめ普通科になった坂井和奏の母の死を乗り越え前に進む姿を描く。

  1. ゆゆ式(2013)

野々原ゆずこ、櫟井唯、日向縁の3人組の高校を部隊とした日常を描く。
たんたんと進む日常を、ただただ、まったりと描くだけのストーリーでありながら、独特の三人の関係の深い魅力を感じさせる。

  1. ディーフラグ!(2014)

高校生で不良の風間堅次が、ひょんなことからゲーム製作部(仮)の部員となる。この部を舞台としたギャクアニメ。
ゲーム製作部(仮)の部員と、次々とあらわれる、彼らと関わる、独特の個性をもつサブキャラとの、なんともいえない「かけあい」がおもしろい。

  1. ストライク・ザ・ブラッド(2015)

伝説の存在とされていた世界最強の吸血鬼「第四真祖」が日本に出現する。彼こそ暁古城という高校生なのだが、彼を監視するため、政府の獅子王機関は「剣巫」見習いである姫柊雪菜を第四真祖のもとへ送り出す。同じ校舎の中学生となった雪菜の二人を中心としたストーリー。
作品設定としては陰謀論的な謎の設定が存在するが、暁古城自身が身の周りの「倫理的」関係を優先して生きる存在として描かれており、むしろ彼と彼の周りの仲間たちとの倫理的な関係(仁義と言ってもいいが)が作品の核となっている。

  1. ハルチカ(2016)

弱小吹奏楽部に所属するハルタとチカが、部活を通して、校内で起こる様々な事件(日常の謎)を解決する(推理小説が原作)。
各話形式で話が進み、毎回「事件」という形で、さまざまな人たちの生きている事情を知ることになり、そのことを通して人が生きることの意味を考えさせられる形になっている。

こうやって見ると、私が選んだ作品は別に、「日常系」というわけでもないわけだが、逆に言うと、そこで起きる「事件」になんらかの

  • ゼロ年代的な哲学者が言いたがるような)歴史的意味

のようなものはないわけで、つまりは、そういう意味では、たんたんと話が進むだけ、というふうに表面的には思われる、ということでは日常系なのだろう。
もう一つの特徴は、いわゆる、

ということでは、「ヤンキ」と「地方(地元)」といったものを肯定している、ということになるかと思う。結局、サブカル周辺で「オタク」という言葉を使うとき、それって

  • インテリ「オタク」

なんですよね。つまり、高学歴なわけです。だから、彼らの「高学歴貴族」たちの自尊心をホルホルしてくれる作品しか「評価」されない。つまり、それ以外は「ノイズ」として、周縁化されてしまう。
たとえば、「ポピュリズム」という言葉があるけど、少し前はそれを「反知性主義」と呼んでいた。ところが、この言葉のアメリカでの文脈は、意味がまったく逆で、むしろ

  • インテリ批判

の内容であったことが、巷間に知られてくると、彼らインテリたちはこの「反知性主義」という言葉を使わなくなる。
ようするに、そこに何が示されているのかといえば、彼らインテリたちの

  • 差別感情

があらわれていたわけで、そういった「凡庸」なインテリたちの、「外部」から

  • 現れる

視差としての倫理的な作品が上記では選ばれているわけで、もっと言えば、彼らが「倫理的」であるから、この日本は平和なわけであろう...。