牧野雅彦「アレントと政治的思考の再建」

例えば、なぜトランプがアメリカの大統領になれたのかを考えると、彼がアメリカの二大政党である、民主党の主張とも共和党の主張とも違ったことを語ったから、と考えるのが正しいように思われる。
つまり、彼は民主党共和党も「代表」していない

  • 勢力

の意見に耳を傾けて、その意見を拾い上げた。だから支持されたのであり、一定の「正当性」を獲得できた。
だとするなら、それはなんだろう?
おそらくそれは、多くのアメリカの白人たちが抱いている「不安」に答えたのだ。
アメリカは少しずつ、白人の人口構成における割合が低くなってきている。それは、毎年の「移民」の人口割合を考えれば分かるわけで、今のままであれば、いずれは5割を割ってしまう。
すると、アメリカの白人たちが作ってきた文化がアメリカのマジョリティではなくなったときに、果してそれは、アメリカなのかという疑問があるわけである。
その「シンギュラリティ」問題が彼らを不安に陥れている。そこで何かが変わってしまうのではないか、と恐れている。
過去の人間社会における、「コミュニティ」の形成過程を考えてみると、まず、ある地域に「外」から人が流入して、そういった人々がその「閉じた」地域の中で、一定の

  • 共同生活

を始める、という形で整理できるであろう。つまり、この段階においては、その共同生活の「持続可能性」が問われることになる。あっという間に、滅びては意味がない。なんらかの「共生」を目指さなければ、お互いが共倒れになって、「一緒に滅びて」しまう。
しかし、この話は現代において、次の段階に進む。
まず、船や飛行機などの移動手段の発達によって、簡単に「共同生活単位」は

  • 一緒

に別の地域に行くことが可能になった。ところが、そんなことをしたら少し前であれば、「侵略行為」と見做された。大量の人が一緒に押し寄せてくるのだから。ところが、近代国家はそれを「防ぐ」理屈がない。
そこで、しょうがないので、こうやって移動してきた人たちとの「共生」を考えるしかない。彼らにも、一定の福祉を与えるしかない。飢えて死なせるわけにもいかないので。
しかし、ここである疑問がわいてくる。
これは一種の「侵略」ではないのか? つまり、なにが侵略でなにが侵略でないのかのその基準が近代国家では分からなくなってしまったのだ。
人々の「移動の自由」を認める限り、世界中の人々は福祉国家に移民をすればいい、ということになる。なぜなら、福祉国家に行けば飢えている人を勝手に助けてくれる、というのだから。みんなが夢の国、ガンダーラを目指して旅に出るわけだが、飛行機を使えば、一日で天国に行ける、というわけである。
そこで、なんか、おかしいんじゃないのか、となったわけである。
つまり、一種の「侵略」の方法が確立された、というわけである。貧しい国の人々はまず、みんなである国に「移民」を目指す。その国は世界で一番の福祉をうたっているというわけで、みんなでその国に行く。その国に入ってしまえば、こっちのものである。人口の多さを利用して、土地の住民の「過半数」を上回る人口で、その地域に移住してしまえば、そこの民主主義を「支配」できる。もう、この国は彼らのものである。あとは少しずつ、時間をかけて、自分たちが有利な国家に変えてしまえばいい。そこの土地の慣習も、移民たちにとって馴染みのあるものに変えてしまえばいいであろう。
これが集団移民の「ビジネスモデル」である。ある意味、カッコウが別の鳥の巣の親鳥に、自分の卵を育てさせるのに似ているかもしれない。
果して、この方法はどこまで実効的であろうか? 多くの場合、こうはいかないであろう。というのは、少なくとも、これから「侵略」をしようとしている異民族の人は、その土地を知らないので、いろいろと勝手が違うだろうから。
しかし、こうやってまとめてみると、これって

そのものなんじゃね、という気もしてくる。

神保 例えば、信教の自由というのは、もともと座りが悪いのに、なぜアメリカでは独立の精神とかにわざわざ、そんなもんアメリカは入れる必要があったんですか。
石川敬史 たしかに、アメリカ革命の時は、確かにアメリカ史の中から見ると、異常な時代でして、要するに、独立革命の指導者に、聖職者は入れてないんですよ。で、信教の自由も、政教分離の原則も、あの時、あの人たちは、ある種のアメリカを一瞬、乗っ取ったんですよね。建国の祖たちは。
神保 アメリカを代表していない人たちが、一時的に、乗っ取ったと。
石川 なぜ彼らが乗っ取る必要があったかというと、ちょっと細かな話になるんですけど、1763年に、7年戦争が終わるんですね、アメリカ史の中で、フレンチニア戦争というんですけど、これが終わって、新たにイギリス勢が勝つんですけど、獲得した旧フランス州をどのように統治するか。おなじみの話ですけど、誰が金を払うのか、って話になったときに、およそ160年ぶりに、アメリカ植民地がイギリス本国政府と対話するんですよね。その時に、移り住んできた住民。17世紀と全然雰囲気が違うんですよ。イギリスがね。要するに、名誉革命の後なので。すると、アメリカとしては、絶対王政の王様から勅許状をもらって植民地を経営してたんですけど、イギリスはそんなアナクロなことを言われても困ると。王様というのは、あくまでも議会の輔弼を受ける存在、という話をされると、歴史の中で、自分たちの権利を正当化できないんですね。ただ、ジョンロックに頼るという、あの建国の祖たちにとっても遺憾なことをせざるをえなくなった。
神保 建国の祖といわれる人たちの権力の根拠となるものをみつけるために、それを持ちださざるをえなくなったということですか。
石川 で、もう一つ大事なことは、当時のジェントルマン階級の社会的威信がやっぱり高かったんですよね。これは大事なことで、やっぱり貴族こそいないんですが、じゃあそのアダムズに気安く話かけられたかというと、そうではないんですよね。彼等ぐらいの威信があって、なんとかかろうじてリベラルな政策が、政治学的にリベラルな政策が、できた。
(中略)
石川 ジョンアダムズのアリゲイル家の奥さんは、ピルグリムファーザーズの末裔ですから、早く入植した人たちが偉いんですよね。ネイティブということで。
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アメリカの謎というのがあって、というのは、アメリカ人はピューリタンだったはずなのに、なんで憲法政教分離とか入ってんのか、というわけである。
そう今さらのように言われると、不思議な気もしてくる。あれだけ、進化論を教科書に載せるのかでもめている国が、憲法政教分離があるのはなぜなんだろうと考えてみると、ようするに、この国は

  • 革命

でできた国であることを、多くの人が忘れているわけである。
革命というのは、言うまでもなく、常に、エリートが行う。じゃあ、なぜその時のアメリカはエリートの独裁を許していたのかと考えると、まあ、そもそも政治というのは「外国」との関係を差配することを意味しているわけで、まだその当時のアメリカは国内の分配がテーマではなかった。どちらかというと、外国、特に、旧宗主国のイギリスとの関係をどう決着するのかが重要であった。というか、国家というのは、外国の戦争をするのが国家の定義なのだから。なんとか、外国と戦争をしないように、交渉をしてくれる人が、とりあえず、偉そうにしている、というわけなのだろう。
しかし、そういった「エリート独裁」の時代もいずれは終わりを迎える。

石川 猟官制度というのが始まったのも、ジャクソンからなんですよね。そもそも、アメリ連邦政府、州もそうなんですけど、行政官職というのは、名誉職でしたから、ボランティアでやってたんで、裏を返せば、定年もなかったんですよね。ずーっとやってたんですけど、これを辞めさせて、自分の好きな人を行政官職につけるようになったのがジャクソンからで、それはデモクラシーの精神に合致しているというんですけど、もう一つ重要なことをいっていて、彼は、公務員の仕事というのは誰がやっても務まるんだと。誰がやっても務まるものでなければならないんですね。専門性のある仕事であったら、それは政府がやるべきではない。ていうのがジャクソンの主張でして。
神保 それは民間がやるべきということでしょうか。
石川 なんでしょうけど、コモンマンという言い方になるわけで、たぶん、あべひとし先生が言ったような、コンセンサスを、このジャクソン以降の人たちは、あんまり共有してないんですよね。自分たちのウェイオブライフがあるので。
神保 ジャクソンが出てくるまでに共有されていたコモンセンスというのは、なんなんですか。
石川 デモクラシーでも制度でも、ヨーロッパの制度で説明するんですよね。これが説明しなくなるんですけど、どのくらい根拠になるかわかりませんが、だいたい1930年前後に、アメリカで一般投票が導入されるんです。すると、だいたい、建国の祖タイプの人たちは選挙で落ちるんですね。
(中略)
石川 デモクラシーという言葉が、ほんとの正当性をもつといいますか。ジャクソンより前は、共和政体なんですよね。ピープルに根拠を置く共和政体だったんで、それはデモクラシーではなかったんですよね。ところが、ジャクソニアンの頃にこれが、悪口じゃなくなるんですよね。これが、デモクラシーっていう言葉が。
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しかし、上記で興味深いのは、アメリカがエリート独裁から、デモクラシーに変わるとき、

  • 誰がやっても務まるものでなければならない

という「ルール」があった、というわけである。つまり、この「ルール」がないがしろにされるとき、「エリート独裁」を声高に主張する「エリート主義者」の跳梁跋扈が始まる。
さて。掲題の論文であるが、日本ではなぜか、ハンナ・アレントが学者の間で人気がある。
おそらくそれは、彼女が「エリート主義者」だったから、ということになるであろう。つまり、彼女の哲学が、日本のエリート主義の「根拠」を提供すると思われているから、ということになる。

しかし、このような政治からの排除は不名誉なものにはならないだろう。というのも、政治的エリートは決して社会的なエリート、文化的なエリート、専門的なエリートと同じものではないからである。しかもそれに加えて、この排除は外部の団体によってなされるものではない。エリートに属する人間は自分で自分を選抜するのだとすれば、それに属さない人も自分で自分を排除するのだから。このような自己排除は、恣意的な差別であるどころか、古代世界の終わり以来われわれが享受している最も重要な消極的自由(negative liberty)の一つである政治からの自由に実質とリアリティを与えるだろう。この政治からの自由はローマやアテナイでは知られておらず、おそらく政治的な意味ではキリスト教の遺産の最も重要な部分なのである。

政治的なエリートは社会的その他の文化領域でのエリートと同一ではないし、政治的な場において人々はもっぱらその政治的力能において互いを選抜しまた排除する。その限りでここでのエリートの存在とある種の「貴族主義」は、生まれや財産などの社会的・文化的条件、あるいはまた専門的知識などの多寡や有無によってなされる選抜や排除----通常われわれが差別的選抜というところのもの----とはその本質において異なる。しかも自ら進んで政治の世界から退き、政治からの干渉を受けないという意味での消極的自由こそ、古代ローマギリシアには知られていなかった、キリスト教の遺産なのであった。

こうやって見れば分かるように、掲題の著者は、今のアメリカにおける「民主主義」に反対で、アメリカ建国当時の「エリート独裁=共和制」に戻るべきだ、と言っているのかもしれない。
しかし、その場合になら「エリート」が国民のために、例えば、この論文でも重要視されているような、モンテスキュー的な三権分立に代表される

  • 権力同士の「牽制」

が十分に機能すると考えるのかが理解できない。なぜエリートは自らの権益を「最大化」させる、功利主義的な利己的行動を行わないと考えるのだろう? なぜ、彼らエリートは、今自分が権力の頂点にいることを利用して、終身名誉職的な

  • 貴族システム

を確立しようとしないと考えるのだろう? こう考えてみると、明らかに、ハンナ・アレントはやっぱり、ハイデガーの弟子らしく、どこはファシスト的な部分を感じざるをえない。
上記の、政治的エリート以外での「エリート」がたとえありえたとしても、そういった「政治的エリート」を

  • 牽制

するような、権力のチェックバランスが機能するような政治的カウンターパートを想定できない限り、「政治的エリート」は、いずれは、「文化的エリート」を彼らの「奴隷」にする制度を作るであろう。いや、エリートがそんな人間の人権を破壊するような行為を行うわけがない。彼らは、ノフリス・オブリージュなんだから、世界の正義のために、働くにきまっている、というのは、実際にどうなのかに関係なく、大事なポイントは

  • たとえ、彼らが「鬼畜」だったとしても

うまく機能が周るような、チェック機構を維持できるのか
にかかっているわけで、そう考えるなら、そもそも、デモクラシー以外の制度などありえないのだ。
大学で一生懸命、勉強しているエリートさんたちが、こうやってハンナ・アレントに「惹かれる」ことは分からなくはないが、今回のトランプ問題にしても、鬼の首でもとったように

  • ほうら、民主主義は危険だろ。だから、エリートに政治は任せて、大衆は政治に関わらなければ、もっと人生を有意義に過せるんだ

というような思想は、結局は大衆を「奴隷」にするシステムが成立することをみすみす許すだけであることを意味する。
ようするに、「エリート主義」者が言いたいことは

  • いかにエリート主義がコスパ最高であるか

を強調しているだけで、エリートに面倒なことを任せれば、あんたたち好きなことにもっと時間をかけられて、人生を有意義に過せるじゃないかと言っているわけだが、そういう「計算」の話をしているにすぎない。
しかし、そんなふうに言うなら、上記の政治が

  • 誰がやっても務まるものでなければならない

という主張について、もう少し真剣に考えるべきなのだろう、と思うわけである。おそらく、エリート主義者はこの主張を真剣に受け止めていないのだ。どうせ、政治がだれでもやれるわけがない、と思っている。しかし、だとするなら、なぜそうなのか。なぜ、そういうものになっているのか、と問うていない。
やれるわけがないことが自明だから、そうなんだ、というトートロジーでしかない。
マルクスが分析したように、代議制においては代議士は、国民の誰かを「代表」していなければならない。つまり、ここで大事なことはむしろ、

  • 誰も代表されていない

という思いが「革命」を導くというところにある。それは、今回のトランプの当選をよくあらわしている。民主党共和党も、どちらも、いわゆる、白人たちの「不安」を

  • 代表

していない。そもそも、民主党共和党もどうやって有色人種たちを「利用」して、海外でお金儲けをするのかにしか興味のない人たちで、そういった多くの白人の国民たちが抱き始めていた「不安」をまったく、手当てできていなかった。
だとするなら、どんなに差別的に思われるとしても、トランプの当選には一定の正当性があると言わざるをえないのではないのか。
アメリカはそういう意味で、帰路に立っている。
そのアメリカにおいて、こうやって日本人がハンナ・アレント的なエリート主義によって、

みたいに見下したことを言っている限り、それは、アジア人の立場からの、ポジション・トークとしてしか受け取られないであろう。まあ、少なくとも日本の移民政策の体たらくを見る限り、よその国を馬鹿にしている場合じゃない、ということなのであろう...。

世界 2017年 04 月号 [雑誌]

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