福原明雄『リバタリアニズムを問い直す』

掲題の著者は、リバタリアニズム

におちいっている、と主張する。そのことは例えば、カントの実践理性批判において、個々の自律(つまり、自由)と、定言命法という道徳という義務であり、人々の尊厳の普遍性の三つが

  • セット

で議論されていたにも関わらず、なぜかリバタリアンはここから「自由」だけを「独立」に議論できると見做したことの態度の

  • 曖昧さ

が批判されなければならないわけだが、そもそも「俺はカントを超えたぜ(ドヤッ」な人たちにそう言っても、なにを言っているのか理解されないわけで、やれやれなわけだがw

もちろん、アスキューの理解は、リバタリアンは肥大化した政府に対する批判の急先鋒ではあるが、リベラリズムや共同体論のあらゆる立場が、肥大化した政府を批判しない / できないわけではない。一般的にリベラリズムにおいては、政府は適切な規模に維持されるべきだと評価される傾向にあるし、共同体論はアナキズムを擁護することができる。つまり、(程度の違いは措くとして)政府を小さく保つという方針自体は、リバタリアニズム特有のものではないどころか、現代正義論以前から存在する、ある種の「知恵」のようなものである。そうであれば、「リバタリアニズムは、比較的小さな政府を支持する立場である」という自己同定はあまりにも広すぎ、ほとんど役に立たない。たとえば、なぜ古典的自由主義リバタリアニズムに含まれ、他の抑制的なリベラリズムの立場は含まれないと判断できるのかについての基準が、この自己同定からだけでは、一見して明らかなように導き出されることはないと思われる。

しごく、まっとうな意見であろう。リバタリアンを自称する人の多くは「政府の支出」を問題視する。しかし、そんなことは別にリバタリアンに言われなくても、だれだって「無駄」な支出はできるだけ少なくさせようと考えるわけであろう。
そういう意味では、より混乱がひどくなっているのが、ミルトン・フリードマンであろう。

フリードマン帰結主義は、このアプローチの一つとして理解する方が、無理がないように思われる。というのも、彼の議論は、様々なリバタリアンが行ってきた提案の望ましさを、効率性という面から正当化していったものであるように思われるからである。(中略)
このようにフリードマンが論じるとき、彼は既にリバタリアニズムを手放している。そして、彼は個人の自由の重要性についての論証も、もはや自らの議論の射程外に置いてしまっているようにも見える。(中略)フリードマンには尊像し難いかもしれないが「効率的な非リバタリアン体制」は、原理的に不可能なものではないし、むしろ、趨勢はそちらの側にあると言ってもよい。

フリードマンに至っては、というか、いわゆる「経済学者」たちは、そもそも「効率」にしか関心がない。自分が作った数学モデルが「効率」を実現するかしないかにしか関心がない。しかし、そんなもののどこが「自由」なのか? というか「自由」の擁護に関係があるのか? 上記の引用にあるように、

ことが普通に議論されているわけであろう。例えばそれは、行動経済学系のキャス・サンスティーンなどが言っている「リバタリアンパターナリズム」や「チョイス・アーキテクチャ」が典型的なわけであろう。

リバタリアニズムは、少なくとも、自己の利益を最大化して生きるべきだと主張するのではないし、それが最も重要なことだとも考えていない。愚かしい・怠惰な生を選び取る自由さえ認められるべきだと考えるからこそ、自由は重要なのであって、自らの善き生の構想を「合理的に」追及することだけが重要なことではない。

コンリー(Sarah Conly)が論じる通り、「リバタリアンパターナリズムは操作的(manipulative)である」。ナッジは我々自身の推論をバイパスさせてしまうことによって、人々の意志決定を尊重することに失敗している。また、強制的にある良い結果をもたらすわけではないので、パターナリズムとしての有効性においては、強制的な(coercive)パナーナリズムに劣っているのである。つまり、リバタリアンパターナリズムは、人格の尊重にも、パターナリズムの貫徹にも失敗していると言わざるをえないのである。

こうやって見ると、自称リバタリアン東浩紀先生の言う「豊洲移転以外の選択肢はない」という発言こそが、上記の「矛盾」を露骨にあらわしているわけであろう。豊洲移転は、そもそも利用者の便宜性をまったく考えていないから、移転をした途端に市場ではなくなる。たんに、外資が市場を通さずにショッピングモールへ、高値で流通させるために、中小の業者を根絶やしにするための、一連の儀式にすぎない。むしろ、そのためにこそ豊洲市場の建設は急がれた。建物さえ、テロリズム的にさっさと作ってしまえば、あとはなんとかなる、と(靖国神社A級戦犯合祀みたいなものである。やったもん勝ちだ、と)。
しかし、なぜこんなものを自称「リバタリアン」の東先生が賛成しているか? ようするに、

なわけで、これのどこが「自由」なんだ、というわけである。リバタリアンの最も重要な存在意義は「愚行権」である。つまり、間違った豊洲移転は、今から止めればいい。それを、東京都民の全員による「民主主義」によって、

  • 選び直す

わけである。まさに、これこそ「リバタリアン」ではないか!
話が脱線したが、掲題の著者はこういった、「リバタリアン」という概念の「アイデンティティ・クライシス」に対して、次のような「左翼リバタリアン」でさえ、ありうる、と主張する。

そして何より注意すべきことは、森村が「左翼リバタリアニズム」に付した平等主義(egalitarianism)というレッテルは、本書のリバタリアニズムに対する態度からすれば、何の問題も引き起こさないということである。平等主義(平等論)は分配原理論のカテゴリーの名前だが、リバタリアニズムはある幅の中の国家論の総称だからである。

まあ。そうなるよね。
ようするにさ。最初に言ったことに返ってくるんだよね。リバタリアニズムが結局、何を目指しているのか。それをひとまず「自由」と言うなら、愚行権の擁護にしても、各自なりの「人生の目的」を各自が各自なりに「目指す」ことを究極的に擁護するにしても、それって、究極的には

  • 人間の尊厳

を擁護する、ということなわけなのよ(上記のカント的トリレンマは離して考えられないわけだ)。つまり、リバタリアンの言う「自由」は、最終的にはカント主義になる(それは、ノージックの本が、リバタリアンの最終的な根拠に、カントの定言命法をもってこざるをえなかったことからも分かる)。
そう考えると、リバタリアンリベラリズムに吸収される。つまり、それはリベラリズムの中で、どこを強調するかの範囲の話でしかない、ということになるわけである...。

リバタリアニズムを問い直す: 右派/左派対立の先へ

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