東浩紀先生のパクリの「技術」

今回の東先生の著作である『ゲンロンゼロ』は、よく考えてみると、いろんなところで柄谷行人の『探究』の「パクリ」になっているな、ということを印象づけられる。いや、正しくは、柄谷が主張していたことをジャック・デリダの主張を盾にして、「否定神学」だと批判していたのが東先生なわけで、いわば東先生に言わせれば、それは

だと言ってもらいたいのであろう。つまり、よく見ると、柄谷が主張していたことの文脈が微妙にずらされている。
例えば、「観光客」と言うわけであるが、よく考えるとなぜ「突然」そんなことを言い始めているのかの説明はどこにもない。つまり、どういった文脈でこれが「問題」となったのかの出自がまったく書かれていない。
しかし、である。そもそも柄谷が『探究』において、それを「旅人」の問題として書いているわけである。

デカルトはこういっている。

さて私が他の人々の行動を観察するのみであった間は、私に確信を与えてくれるものをほとんど見いださず、かつて哲学者たちの意見の間に認めたのとほとんど同じ程度の多様性をそこに認めたことは事実である。したがって、私が人々の行動の観察から得た最大の利益はといえば、多くのことがわれわれにとってはきわめて奇矯で滑稽に思われるにもかかわらず、やはりほかの国々の人によって一派に受けいれられ是認されているのを見て、私が先例と習慣とによってのみ確信するに至ったことがらを、あまりに固く信ずべきではない、と知ったことであった。かくて私は、われわれの自然の光(理性)を曇らせ、理性に耳を傾ける能力を減ずるおそれのある、多くの誤りから、少しずつ開放されていったのである。しかしながら、このように世間という書物を研究し、いくらかの経験を獲得しようとつとめて数年を費した後、ある日私は、自分自身をも研究しよう、そして私のとるべき途を選ぶために私の精神を全力で用いよう、と決心した。そしてこのことを、私は、私の祖国を離れ私の書物を離れたおかげで、それらから離れずにいたとした場合よりおも、はるかによく果たしえた、と思われる。(『方法叙説』野田又夫訳)

このように語るデカルトは、思弁的な哲学者であるどころか、レヴィ=ストロースのいう「人類学者」である。『悲しき熱帯』の作者が右のように書いてもおかしくはない。たしかにデカルトの関心は、旅から得られる「多様性」そのものにはない。だが、レヴィ=ストロースも次のように書きだしているではないか、「私は旅と探検家が嫌いだ」と。さらに、彼はこうのべている。《研究の目的に到達するために、これほどの努力とむだな消耗が必要だということは、私たちの仕事のむしろ短所とみなすべきで、なんらとりたてて賞賛すべきことではない。私たちがあれほど遠くまでさがし求めていく真理は、このような夾雑物を取り去ったのちに、初めて価値をもつのである。》(『悲しき熱帯』川田順造訳)。

探究2 (講談社学術文庫)

探究2 (講談社学術文庫)

この柄谷行人の『探究2』の第二部第一章「精神の場所」における議論は、このようにレヴィ=ストロースに言及する形での「旅人」論になっているわけであるが、ここの上記の議論と、東先生が今回の本でディドロに言及しているところは、妙に「似ている」印象を受ける。

お前さんの国で[近親相姦によって]火あぶりにされようがされまいが、わしの知ったことじゃないよ。しかし、お前さんはタヒチの風習を楯にとってヨーロッパの風習を非難してはいけないが、それと同じで、お前さんの国の風習をかつぎ出してタヒチの風習を非難するのもどうかと思うよ。わしらはお互いにもってがっちりした規則がほしいわけだ。ところで、その規則というのは何だろう?

ヨーロッパ人は近親相姦を否定する。しかし「タヒチ人」は否定しない。ディドロは『カンディード』と同じように、世界旅行の仮定を導入することによって、人間や社会の本質について、ヨーロッパの常識に囚われない普遍的な視座を獲得しようとしている。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

しかし、ある点において決定的に違っている。それは、柄谷の論点においてはレヴィ=ストロースの「旅が嫌いだ」という言葉を引用しているように、デカルトの「懐疑」であり「差異」がポイントにあり、むしろ論点は「商業都市」における、外の共同体との「交換」に重点がある。ところが、東先生には、そういった視点はない。むしろ、「旅人」という表現がもつ

  • エリート意識

についての緊張感がない。むしろ旅人は「普遍的な視点を獲得しうる」という意味で、大衆や旅をできない貧困層からの「特権階級」としての「役割」を暗に示唆されている印象を受ける(そこは、前回も書いたように「オウム真理教」の幹部信者たちが示していた「エリート意識」と似ていると言うこともできる)。
そして、もう一つの東先生の今回の本での中心的なキーワードが「家族」なわけだが、例えば、一つの章をさいて議論しているものとして「不気味なもの」というのがある。

しかし、このような "外部" は共同体の "内部" に対して相対的に在るにすぎない。それは実は、共同体の一部なのである。この不気味な(ウンハイムリッヒ)な外部(フロイト)は、親密な(ハイムリッヒ)内部の自己疎外にすぎないからだ。このような外部(異界)や、そこに属する異者(ストレンジャー)は、すでに共同体から見られたものであり、したがって共同体にとって不可欠な一環である。
探究2 (講談社学術文庫)

これに対し、東先生の説明はまあ「定義」を繰り返しているにすぎないが。

フロイトは一九一九年に、「不気味なもの」と題する有名な論文を書いている。ここでは簡単な紹介にとどめるが、フロイトによれば、不気味さの本質は、親しく熟知しているはずのものが突然に疎遠な恐怖の対象に変わる(たとえば身近な親族が幽霊になるなど)、その逆転のメカニズムにある。
ゲンロン0 観光客の哲学

ただ、言うまでもないが東さんはこういった柄谷のフロイトを介しての「ウムハイムリッヒ」についての言及を知っているだけでなく、その『探究』をさまざまに重要視してきたのだから、ここでの「無視」は違和感を与える。
ようするに、ここでの東さんの「不気味なもの」への言及が家族論の中で行われていることに注意がいる。言うまでもないが、柄谷の「ウンハイムリッヒ」論は、彼の共同体論に深く関係している。ところが、東先生は「共同体」という言葉を使わない。その代わりに、それを

  • 家族

の問題に「反転」しているわけである。
こうやって見てくると、ある「意図」が東先生にはうかがわれる。言うまでもなく、「家族」にこだわってきたのが、日本の保守の伝統である。つまり、東先生は究極の左翼嫌いとして、必然的に「保守派」にあゆみよった議論になる。その中で、柄谷が批判的に考察した「共同体」を

することによって、それを「家族」の話に「ずらした」と解釈できる。そういう意味では、東先生の第二部の家族論は、実質的には「共同体」論になっているのに、そのことが明言されていない。明らかに「隠されている」印象を受ける。
東先生の今回の本は、早い話が、第一部の最後にリチャード・ローティに言及して、第二部に接続されているように、非常に重要な役割にリチャード・ローティの「エリート論」がある、と思われるわけである(本人は絶対に、直接は言わないが)。

ここではローティが公共的なコミュニケーションをどのように描いているかという点に問題を絞ろう。
私たちの語彙が、共約可能な部分と共約不可能な部分に、論議(argument)に馴染む部分とそうではない部分に分かれるという主張には異論はない。かりにすべての語彙が共約可能なものであるとすれば、それは、一人ひとりの生を「ほかならぬ」ものとする特異な語彙の喪失を、したがって、人びとの複数性(plurality)の喪失を意味するだろう。ローティの議論の問題は、彼が、公共的なコミュニケーション共約可能な語彙にのみ関係づけ、そこにおよそ創造----新しい語彙の創出とそれによる政治文化の革新----の契機を見ていないという点にある。新しい語彙、革新的なメタファーの創造は、一部のアイロニストのみがなしうる事柄として描かれ、他方、それ以外の人びとには、アイロニストが創造した語彙を受け容れるか否かという受動的な役割だけが与えられる。既存の文化の「通常=正常性」(normatiy)を攪乱し、それを変容させてゆく「変則性」(abnormality)は、本書では、他者との「対話」(conversation)----『哲学と自然の鏡』において提起された、合意への収斂を目指す論議型の「対話」(diaogue)と対比されるコミュニケーションのあり方----ではなく、もっぱらアイロニスト個人の「私的自律」のなかに位置づけられている、と言ってよいだろう。創造者と受容者おこうした二分法は、自己創造のいわば「他律」的な契機----他者の語る言葉を受容することによって創造が触発されるという局面----に十分に光を当てることができるだろうか。
(「訳者あとがき」)

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

というか、こういったローティの考えは、基本的には左翼の「前衛党」主義とまったく同じものだと考えていいわけであろう。東先生の言う「観光客」がどこか「普遍的」な

  • 前衛党

の役割を担うことになる、土着の大衆と決然と分かれる存在として解釈されていることと重なる。
つまり、東先生はこういったローティによる「保守」革命を、基本的に受け入れている。だからこそ、柄谷のどこか左翼的な問題意識を乗り越える必要があった。つまり、柄谷が左翼的な価値観から消極的な概念として検討された「旅人」や「共同体」といったものを、東先生はプチ・ブルジョア的な「保守」的な価値観から

  • 反転

して積極的な意味へと脱構築することが求められた。つまり、これを実現することが、東先生でありローティの考える「アイロニスト」つまり「エリート」の前衛党性を「積極的」に価値づけられなければならない、と解釈された。
つまり、基本的に東先生の行っていることは、柄谷のある種の「反転」であり(逆張りとも言うがw)、「読み替え」となっている、ということなのだろう...。