深井智朗『プロテスタンティズム』

リバタリアニズムのルーツを辿っていくと、明らかに、そこにはキリスト教の「プロテスタンティズム」がある。というか、例えば、柄谷行人の『近代日本文学の起源』は、そもそも、ルターの宗教改革とほとんど同じことを言っているようにしか聞こえない。

しかし、すでに触れたようにこの時代の人々のほとんどは聖書が読めなかった。その理由は写本による聖書が高価なため、個人で所有できる値段ではなく、図書館でも盗難防止のために鎖でつながれていたほどであったからである。もう一つ、聖書はラテン語訳への聖書がいわば公認された聖書で、知識人以外はそれを自分で読むことはできなかった。

ルターの宗教改革が彼の贖宥状に対する批判から始まったことは言うまでもないが、そもそもそれ以前からこの、キリスト教における社会の停滞は、さまざまな勢力の不満の増大をもたらしていた。ルターはいわば、その不満の爆発の「きっかけ」を与えたにすぎないと考えることができる。
そして、その流れを決定的にしたのが、聖書のドイツ語訳であり、出版技術による聖書の大衆化である。つまり、だれもが聖書を「読む」時代になった。つまり、それ以前のカトリックは聖書の「聖域」性に守られていた。だれも読めないから、好き勝手なことを言ってもだれも逆らえなかった。いわば、その権威がなくなった後も、自らたちの「聖域」性を主張したものがどこまで正当化できるのかが、カトリックプロテスタントを分ける境界線となった。
こういった問題はそもそも、テクノロジーという「工学」的な技術革新が私たちに提示されるものであるので、そもそも今までの慣習では判断できない。いわゆる、「唯物論」的な領域で問題とされることであるので、それ以降。この二つの勢力の溝は埋められることはなかった。
しかし、こういった「正統と異端」の問題において、後世まで、この二極化が維持されたケースというのは、めずらしいのではないか。ルターは確かに、贖宥状に「反対」した。そういう意味で、教皇を代表とした「カトリック」に抵抗した。しかし、彼は言うまでもなく「カトリック」である。彼は教皇側から「異端」と言われたから、立場上、「抵抗」せざるをえなくなっただけで、どこか森友問題の籠池さんに似ている。当時の中世のカトリックにおいては、「破門」されたら、事実上生きていけないから必死で抵抗した。
しかし、そうしたことによって、当時、さまざまにカトリック教皇側に不満をもっていた、多くの不満分子に火をつけてしまった。そしてその運動は、ルターが亡くなった後も、何世紀も、というか今に至るまで続いているのだ。
しかし、ここで一つの疑問がある。
プロテスタントは一体、何を目指しているのか?
つまり、自分たちは「カトリック」と違うと主張するプロテスタントの「アイデンティティ」はなんなのか、ということなのである。

人間同士の関係で考えるならば、関係を破壊した側が修復の努力をするのが一般的である。しかしルターは戒律の厳しい修道院でさまざまな修行をし、また贖宥状の販売に群がる人々を見て、人間の側の努力によって正しい関係を回復することや、自分は義とされたという確信を持つことは不可能だと考えた。自分で自分に保証を与えることはできないからである。
ルターが聖書に発見した事実は、神は義を持つだけではなく、それを与えることが可能だということであった。神は自らを信じる者義とするのである。義人とは、自らの努力で道徳的善良さを手にした人、あるいはさまざまな修行や業によって宗教的徳を手に入れた人ではなく、神によって義とされた人を指すというのが、彼が聖書を読み、そこから引き出した結論であった。義は人間の努力の末に得られたものではなく、神が自らの資源として分かち与えることができるものだというのがルターの発見であった。

マックス・ヴェーバーが指摘したのは、さらにこの先で起こった二重予定の考えの反転だ。神が救いへと予定に定めた者は天国に行けるだけではなく、この世でも祝福に満ちた人生を送れる、という考えを超えて、逆にこの世で成功している者こそが天国に行ける者であり、それが、神が救いを予定したことの証明だという考え方である。
だからこそ、この世での成功がアメリカでは宗教的な救済の証明となった。成金や成り上がり者が嫌われるヨーロッパや日本のような伝統社会とは違って、もともとそのような伝統がないアメリカでは与えられた人生で成功した者こそが神の祝福を受けた者だとされたのだ。これがアメリカの自由な競争という市場の考えと結びついて、一代での成功物語こそがアメリカの美談になる。それだけではない、この社会には国家教会や社会の正統などがないのだから、市場で成功し、勝利した者こそが正義であり、真理であり、正統になる。これがアメリカ的なイデオロギーに宗教が与えた影響であろう。結果こそが真理となる。神の祝福のこの世でのしるしだということになる。実際にここで成功し、うまくいっており、勝利し、よく機能している事実こそが真理なのである。

八木雄二は、デカルトはスコラ哲学の文脈から見れば「落第レベル」だと言ったわけだが、多くの場合、

  • 哲学

とは、

  • 宗教からのパクリ

であることを意味する。多くの「思想」はそもそも、宗教的なコンテクストをもっている「党派」的な発言であることを知らない。
そもそも、リバタリアニズムなど存在しない。それは、「プロテスタントリバタリアニズム」であって、それ以上でもそれ以下でもない。
ルターの主張は結局のところは「反語」によって成立している。自分が異端として抹殺されそうになったから、それに対する「反論」を用意せずにはいられなくなったことが原因なのであって、その延長で人々の自主性を否定したに過ぎなかったはずなのに、これが自らの「アイデンティティ」へと昇華されるとき、「勝てば官軍、負ければ賊軍」の論理へといつのまにか変わってしまう。
ここから、

  • 一切の福祉に反対

する「リバタリアニズム」へはすぐに反転しうることは理解するであろう。福祉を行ってはならない。なぜなら、それは「神が行った<配剤>」だから、というわけである。貧乏人が貧乏なのは、彼らが「怠けた」から。お金持ちがお金持ちであるのは、彼らが「善人」だから。これが「リバタリアニズム」である。恐しい思想だ。
しかし、それにしてもなぜ「プロテスタンティズム」はこのような「アナーキー」な主張になってしまったのだろうか? プロテスタントはそもそも、カトリックという「正統」に対する「抵抗」として現れた。つまり、彼らの主張の本質は「抵抗」にある。つまり、抵抗「自体」が彼らのアイデンティティなのだ。よって、彼らプロテスタントの中から、次々と「急進派」が現れ、現状のプロテスタントを「保守」として

  • 批判

する勢力が現れる。バプティスト派が、子供の頃の洗礼による「国家の権威」を否定するがゆえに、彼らは必然的に、大人になっての「自覚的」な選択による「入信」しか、正統な信者と扱えなくなることは、どこかリベラリズムに似ている。
つまり、プロテスタントは、他の宗教の信者との「共存」を認める。つまり、他の宗教の信者はたんに、自分たちプロテスタントバプティスト派では「ない」ということを意味するに過ぎなく、彼らが何をしようが、自分たちはそれには介入しない。こうやって考えると、そもそも

  • リベラル

とは「プロテスタントバプティスト派」の主張そのものであることが分かってくるであろう(おそらく、リチャード・ローティも基本的には彼の言うプラグマティズムは、アメリカのキリスト教のことを言っていたのだろうと思われる。彼の言う、詩人という「エリート」による「前衛党」主義は、左翼の伝統と考えることもできるが、どちらかといえば、アメリカにおける「宣教師」の役割を意識していたのであろう)。
しかし、彼らの主張がまったくの「非倫理」的であるわけではない。というか、そんなわけがないのだ。そういう意味では、自称「リバタリアン」や、「リベラル」の一部勢力の「非倫理」のあまりにもの、下劣さと比べたとき(今でも、「ふまじめ」の推奨とか言っている連中を考えると、未来に暗澹たる気持ちにさせられる)、その違いに気付くのではないか。

また、アメリカの企業では、アカウンタビリティという言葉がしばしば用いられる。日本では説明責任性と訳されるが、企業や学校は常に自らの業務について説明責任性が求められる。そしてこの原則は、説明できないことはしないという行動の基準や倫理性を生み出す。これもまた新プロテスタンティズム的なセンスであろう。アカウンタビリティとは神学用語である。神の前での最後の審判において、人間が天国行きの最終決定を受けるための、自分の人生についてのアカウンタビリティである。神の前に人生を説明してみせるのである。神はそれに基づいて判断するのであるが、人間にとっては、この時に神の前で言えないようなことは自分の人生の中で、さまざまな決断の際しないことになるので、まさに人間の行動の倫理的な規範になる。それだけではない。これはまさに最終的なアカウンタビリティであるが、ピューリタンは毎日、信仰日記というものを書くようになる。そして自分の一日の生活を振り返るのである。これもアカウンタビリティである。いわば、この信仰の習慣の世俗化版が企業のアカウンタビリティなのであろう。

日本において、エリートはすぐに文書を燃やす。それは、日本の敗戦において、国家文書をことごとく燃やしたことが象徴しているように、大衆に真実を隠すし、そのことになんの恥の感情もない。それは、彼らが大衆を馬鹿にし愚弄しているからだ。
彼ら日本のエリートは、そのことを「パフォーマティブ」という言葉を使って「礼賛」してきた、それは、結局のところは、資本主義を「礼賛」することであり、「マーケティング」を「礼賛」することであり、そのことは

  • いくらでも嘘をついていい

ということを意味する。つまり、日本のエリートには「倫理」がない。それを彼らは「だって、アメリカがそうじゃん」と言うのだろう。アメリカの「リバタリアン」がそうじゃないか、と。しかし、彼らは上記の引用から分かるように、基本的にその本質において

  • アカウンタビリテイを「生きている」

わけである。しかし、日本のインテリにそんな奴、どこにいるだろうか? いつも嘘をつく。大衆は、口先で騙しておけばいい。心の中では、いつも悪魔のような「たくらみ」を隠している。日本のインテリは、例えば、福沢諭吉の伝統からそうであるように、倫理や道徳を馬鹿にする。つまり、「非宗教性」を生きている。彼らは「恐しい」存在なのだ...。