反語=二元論=哲学

ヘーゲルというかマルクスというか、いわゆる弁証法を簡単に説明すると、教皇を中心としたカトリックという権威があって、つまり、そこにおける「ルール」というものがあったのだが、テクノロジーの発達によって、聖書がドイツ語に翻訳され、印刷技術で一家に一冊の時代になると、以前まであった「ルール」が維持できなくなる。その「権威」の源が変わってしまったから。こんな説明ができるのではないか、と思う。
つまり、カトリックの言う「ルール」は一つの「内部」を形成しているということなのだが、哲学がこういった「ルール」に対する「反ルール」の運動だと考えるなら、その最も一般的な手法は

  • 反語

だということになる。これを行ったのがニーチェであって、彼はキリスト教道徳に対して、「反キリスト」を対置した。つまり、カトリックの「ルール」の

を「対置」したわけである。こういった「レトリック」を「哲学」と呼ぶなら、なるほど日本の文化系の哲学研究者である、例えば、永井均にしても、中島義道にしても、まあ東浩紀先生にしても、まあ「ニーチェ主義者」ですよね。ある「ルール」、つまり、「価値」に対する

  • 反価値

を唱えるんだけど、その反価値は実は、「価値」なんだ、という構造になっている。
つまり、ある「内部」に対して「反内部=外部」を対置する、というレトリックになっている。
しかし、これって考えてみるとカトリックに対抗したプロテスタントの態度そのものなわけである。ある権威に対して、別の権威を対置するんじゃなくて、

  • そもそもお前たちの「権威」が間違っている

となる。だから、彼らは自らを「権威」に変えない。バプティスト派が生まれてすぐの親による「入信」を拒否し、成人してから自らの「意志」による「入信」だけを正統とするのは、ようするに国家と結合した「カトリック」と距離を置くということを意味する。彼らは、徹底して、国家に近づくことを警戒するし、自らが国家に近づくことも警戒する。徹底して国家と距離を置くことを重要視する。
つまり、バプティスト派は自らの「自治」を重要視する。そして、この共同体に対する国家の「干渉」を徹底して排除する。よって、バプティスト派は一種の「秘密結社」となる。彼らの共同体は、参加するにはこの自治による「入会資格審査」を必要とするし、自らに瑕疵があればいつでも「強制退会」させられる。つまり、そうだからこそ、この共同体の一員であるということは

  • エリート

であることを意味するし、社会的な信任をもらえる可能性もある。自分がバプティスト派であることを示すことが、自分が「信用できる」人間であることを証明する手段として機能する。自分がバプティスト派であることから、この人はこういった倫理を生きているだろうとか、お金を貸しても返してくれるだろう、他のメンバーが助けるだろうと想定できることに繋がる。
しかし、そもそもカトリックというかイエス・キリストの宗教運動は他者救済を目的としていたわけであろう。それは具体的な医療行為を一つの手段として、基本的にはそういった実践的な取り組みそのものであったはずなのだ。
それが「プロテスタント」という、「反正統」が

となった途端に、一体彼らは何がやりたいのかが分からなくなっていく。自分たちは「真の信仰」を実践している集団なのであって、カトリックのような「ニセモノの信仰」ではない、とか。いや。彼ら秘密結社の「外」がどうかではない。真の信仰をしている自分たちがどうなのかにしか興味がなく、基本的に「外」がどうなのかは、どうでもいいのだ。
もともとのイエス・キリストが「困っている人を助けよう」という運動だったとするなら、そもそも「プロテスタント」は何がしたいのか、という問題になる。
ようするにここにあるのは、ある種の「エリート主義=前衛党」の「目的」の曖昧さにある、ということになるであろう。なぜ「エリート」は偉そうなのか。そういった理由が、義務教育の競争社会を離れたとき、意味が不明確になっていく。彼らが先鋭的に

  • べき論

を述べるとき、そもそもその「根拠」はなんなのか。なぜ、あなたはそんなことをここで提案しているのか、といった「理由」が重要になってくる。つまりもうそこには、義務教育時代のテストの答えの「自明性」はなくなっている。そこにあるのは、たんに、二人称的なP2Pの関係でしかない。そうであるのに、あいかわらず、なにかどこかに

  • 本当の真実を知っている「先鋭集団」

みたいな「はったり」が顔を出してくる。
結局、二元論というのはこの内と外の関係のことなのだと考えていい。しかし問題は「外」つまり「補集合」なのだ。内はまだ分かる、自分たちが考察している対象なのだから。問題は外である。これはなんなのか? まあ、限定されていないのだから、「無際限」と言うしかない。
しかし、この二つはいわゆる「二元論」として、対立するなにかであるかのように仮構される。そして、その対立を「乗り越える」みたいな話にさせられる。
なぜ、こういうことになっていくのだろう?
結局そこにあるのは、「反語」ではないか、と思えてくる。ニーチェキリスト教を批判するとき、それは具体的にそれが何を言おうとしているかの前に、そもそもそんなことは、キリスト教だから問題だ、といった話じゃない。どこの組織だって、同じような問題になりうる。だとするなら、なぜニーチェはそれをわざわざキリスト教の話として説明したのか。それは言うまでもなく、彼の回りにおいては、圧倒的にキリスト教が勢力を広げていたし、現実に戦う相手だったからであろう。同じことは、ルターの宗教改革にも言える。反語は一つの「権威」との戦いの手段なのだ。権威が

  • 問題

と考えているから、そこからの「抵抗」が選ばれる。しかし、だとするならその「反転」した自らの「理想」とはなんなのか、ということにならないか? 反語とは「二元論」のことである。つまり、ある「ルール」に対する異議申し立てが、その「補集合」を意味するのにも関わらず、彼らはその「無限定」について悩まない。それは、そもそも最初からなんらかの「二元論」を語ることが目的だから、と言うしかない。
哲学とは、この繰り返しである。
よって、ここで問われるべきことはなんなのだろう? おそらくそれは、「ニセモノの反語」を警戒する、ということになるであろう。つまり、「フマジメな反語」ということである。つまり、哲学者は常に

をする。彼らは、そもそも「問題」を起こすことが彼らの「アイデンティティ」なのだ。彼らの目的は「お金儲け」である。お金が儲かるためなら、どんな嘘もつく。彼らは、そういった自らの「悪行」を

  • ふまじめの「推奨」

と言って正当化する。彼らは、そもそもの最初から「御用学者」なのだ。彼らはお金儲けのために、人々を「騙す」。彼らの商売方法は基本的に「炎上商法」である。挑発的な、人々の道徳的感情を「挑発」するようなことを言って、気の弱い人を煽って、お金を払わせる。
例えば、今回の東浩紀先生の本も、よく考えると、哲学となんの関係もない、観光客と家族をなぜか、中心のテーマにしているというわけだけど、この二つって、

  • 文化系

の人たちの急所をついているよね。そもそも、文系というなんの専門分野もない人たちに、

  • いや。俺ら文系は「観光」と「家族」の専門家なんじゃないか?

という「ホルホル」感情を刺激しているわけなんだよね。でも書いてあることは、「観光」とも「家族」とも、なんの関係もない。でも、そうやって文系の人たちのアイデンティティを刺激されたら、読まないわけにいかなくなるよね。恐しい商売根性だよな...。