世界は「案外」平和に過ぎていく

例えば、あなた自身の場合を考えてみてほしい。あなたは、自分が生まれた土地の人たちのために働いてほしいと言われれば、すこし「やる気」がでてくるのではないか。それは、まったく自分に関係したことのない「よその土地」と比べて、ということであるが。
そういったように人は常に、何かを「愛している」わけであり、つまりは、愛しているものと、「その他」というものがあることを理解している。しかしそのことが、「その他」がどうなってもいいと考えていることを意味しているわけではない。単純に自分とは今まで、「縁がなかった」という事実を意味しているだけで、もしかしたら、これからそういった縁が生まれるかもしれない。つまり、何年後かには、ここを「愛している」ようになっているかもしれない。
このことは、政治学者のシャンタル・ムフが、比較的にブレクジットやトランプ政権に「冷静」であることが何を意味しているのかを考えさせられる。というのは、彼女がラクラウと書いた『民主主義の革命』に一体、何が書かれていたのかに関係している。この本は、南アメリカにおける、多くの国々において起きている「極端な貧富の格差」について、それを

  • 未来の先進国において示され始める<矛盾>

を先行して示している姿として構想されているところにポイントがあるのであって、そういう意味で、ブレクジットやトランプ政権は少しも「驚くべき」事件ではない、と言いたいわけなのだ。むしろ、この過程は、極端な貧富の格差が拡大する世界の趨勢に対抗していくためには避けられない一つの過程だと受け止められている。つまり、この事件が示しているのは

  • 来たるべき「左翼」のブレクジット

であり、

であることを意味しているわけである。
さて。60年代は、全共闘世代と呼ばれて、大学紛争がさかんであった。その当時、なぜ「左翼」が大きな勢力をもてていたのかを考えてみると、その一つに「スピリチュアリズム」があったんじゃないのか、と思うわけである。
若者たちはみんな、ラフな服を着て、フリーセックス、フリードラッグなど、「自由」が強調されていた。言わば、こういった「自由」という「実体」が、

  • 左翼

の「リアリズム」を代替していたのだろう、と考えられる。それに対して、現代の「左翼」は、結局のところ大衆から見れば、

の側の存在だと見られるようになった。左翼はみんな「身元」が固くて、女遊びもしないし、キャバクラも行かないし、飲み屋に行っても割り勘。ギャンブルもやらないし、お酒も飲まない。煙草もすわない。いつも健康を気にして、スタイルを維持するために、ランニングをしたり、ジムに通ったり。暴飲暴食はやらない。
こういった今の左翼の「体たらく」は一体なぜ、起きてしまったのだろうか。
お酒を飲み、よっぱらうことは、その人の「本音」をさらけだすことを意味し、重要な人間の「境界」に立つことを意味していた。どんなにお金持ちも、よっぱらえば、ただの「よっぱらい」なのであって、そこに、お金持ちも貧乏人もない。つまり、そういった場面においてこそ、その人の真の「人格」が試されている、と考えることもできる。
ところが、60年代、70年代を過ぎて、インテリは「保守化」してしまった。左翼が、「大学教授左翼」とか「ジャーナリスト左翼」とか、いわゆる

  • サラリーマン「左翼」

になってしまった。つまりは、僕には「家庭」があるので、過激なことは言えません、みたいな、そんな左翼ばかりになってしまった。
結局、世の中の困っている人を助ける、というためには、どこかしら、世間の「常識」を突き抜けたような、そういった「人格」が求められていたはずであり、おそらく、60年代、70年代の若者にはそういった「スピリチュアル」なものへの、共同体的な順応があったのだと思うけど、それは、連合赤軍事件や、バブルの崩壊をはさんで、急激に日本のメインストリームから排除されていった。
例えば、連合赤軍事件を考えても、あの時、彼らが語ったのは

  • 自己否定

という言葉だった。つまり、人間は「超越」しなければならない、と彼らは「総括」させようとしたわけである。そして、これはオウム真理教において「再現」された。人は自らを「否定」して、より「上位」の存在にならなければならない。自分という「通俗的」な存在を「乗り越えて」、大衆から遊離した「高位の高み」を目指さなければならない。そして、今。こういった主張を、繰り返しているのが東浩紀先生である。

カントたちは、個人が国民になり、そこで終わりだとは考えなかった。特定の国家への所属は、それを超えた普遍的な主体への上昇の一段階にすぎないと考えられていた。一九世紀のナショナリズムは、現代の内閉的なナショナリズムと異なり、永遠平和(カント)や世界精神(ヘーゲル)に通じていた。
ゲンロン0 観光客の哲学

けれども、人文系の学者は、まさにいま「まじめ」と「ふまじめ」のその二項対立こそを超えねばならないというのがぼくの認識である。
ゲンロン0 観光客の哲学

愛はたいへんやばいものです。だれかを愛しているひとは、信じたいものしか信じない。そしてそれはけっして悪いことだとは思われない。それが愛の基本的な構造です。愛の言説には、真実なんか関係ない。
【宮台真司×東浩紀】ソーシャルが私たちから奪ったもの

東浩紀先生が構想する

  • 超越的「人格」

は、まず、

  • 自分が生まれた土地への土着の郷愁の感情を「超越」する
  • 「まじめ」と「ふまじめ」を「超越」する
  • 人を愛さない。人間の愛憎を「超越」する

というわけである。この人はこんなことを言う人になってしまったんだ。まさに、ガンダムニュータイプだよねw 正直、ここまで来ると、ついていけませんわ。おそらく彼が行っている、「友の会」とかいう会員制のシステムも、早晩、東浩紀宗教教団の信者へと鞍替えしていくのだろう。
こういった、東浩紀流「超越」哲学が、今度どんな「トンデモ」を言いだすか。そして、そのトンデモに、どれだけの哲学とはなんなのかを知らないシロウトが、だまされて金づるにされていくのか。あまり実害が出ない範囲で、尻すぼみで終わっていってくれることを願うばかりである。
例えば、アニメ「ガルパン」ムーブメントを考えてみると、あのアニメは最初の頃は、あれほどの熱狂的な受容はされていなかった。それはなぜかというと、いわゆる「エロ」の要素がなかったから、ということが決定的だったんじゃないかと思っている。あのアニメは、JKが戦車にのるという、ある意味、ぶっとんだ設定であるにもかかわらず、制作側の意向によって、極端なまでに

  • 女子高生の制服のスカートの下のパンツが「絶対」に見えない

ように、細心の注意を払って制作されている。そのこともあってか、登場人物はほとんど「エロ」くない。というか、極端なまでに、そういった「ニュアンス」をどこかしら排除して作成されている。もっと言えば、みんなどこか「男っぽい」わけである。それは、男が描く女はどこかしら、「男の性格」を体現させられる、というふうにも言うことができると思うが、いずれにしろ、こういった特徴を強烈に意識させられる。
しかし、逆に言えば、そのことが、茨城県の港町である大洗町での「聖地巡礼」を、ここまで町が一丸となって応援する体制を実現させた、と解釈することも可能なのだろうと思うわけである(こういった傾向は、どこかアニメ「ラブライブ」にも似たものを感じさせられるところがある)。
今、北朝鮮の紛争がさかんに言われている。しかし、北朝鮮が核ミサイルを撃ってくるとか、それより先にアメリカが専制攻撃を北朝鮮に行うとか、そういった過激な言動がマスコミをにぎわしているが、報道によれば、トランプは北朝鮮とは「対話路線」だと言っているわけであろう。トランプ政権が誕生して、こうして何ヶ月か経ってきて、スティーブ・バノンも更迭されたというし、まあ、トランブは別に「信念」の人じゃないからね。しょせんは、ビジネスマンなわけで、取り巻きの影響で、いくらでも柔軟な政策を選択していくわけなんだよね。議会の抵抗で、法律が通らなかったら、彼の面目が立たないわけで、そうなったら、比較的柔軟な方向を選択していくだろう。オリバーストーンがトランプに比較的、楽観的なのはそういうことなのであって、むしろ、トランプを

  • 世界の悪

みたいに「悪魔」化してエリートパニックに陥っていた連中というのは、むしろ、TPP賛成派のような、いわゆる「新自由主義者」「グローバリズム主義者」「フラット革命主義者」といったような、

  • 反福祉主義者
  • 格差拡大肯定論者

なわけだよね。つまり、大事なことは誰がトランプを「悪魔」と呼んでいるのか、という方にあるわけで、私たちは「本当の敵」を誤ってはいけない、ということなんだと思うわけである...。