性的表現と暴力

トランプが北朝鮮とは対話路線を目指すが、だめかもしれないと言うとき、他方で国務長官が日本に「THAAD」を配備しろ、しかも、そのためにかかる経費を日本は負担しろ、と言っているわけで、ようするに、アメリカの在庫一掃セールに日本を使おうとしている意図が丸わかりなわけであろう。
事情は北朝鮮も同じで、北朝鮮の輸出品としては、こういったロケットしかない。ミサイルの発射試験はそういった連中に向けた、かっこうの「商品宣伝」の場なわけだ。
そして、この事情は日本も変わらない。安倍政権は籠池問題などで人気急落の危機にありながら、こうやって「北朝鮮が攻めてくる」とアッピールするだけで、支持率急落の危機を避けられる。安倍首相にしてみれば、北朝鮮がいかに「危険」かを煽れば煽るほど、自分の支持率が上がるんだから、政治なんてチョロイと思っているわけであろう。
今の状態さ三者三様でみんな「得をしている」というわけなのだから、必然的にこの「加熱」報道はヒートアップしまくるわけであろう。どこにもストッパーがない。日本国内の右翼は今こそ、国難の時だと、憲法改正、国軍の創設を目指そうと、クーデターも辞さずと、武力闘争を訴えるだろうし、むしろ、安倍首相はそれこそを求めているのだから、まあ、行くところまで行くんだろうな、と考えざるをえない。
しかし、実際にどういった武力闘争が考えられるのかと考えてみると、間違いなくその主戦場は南北の38度線を境とした、

  • 韓国のソウル

であるわけであろう。もちろん、日本にミサイルが飛んでくるのかもしれない、核爆弾が来るのかもしれない。しかし、たとえそうなったとしても、「陣地線」の主戦場は、韓国のソウルだ。そこで、白兵戦となる。つまり、確かに日本に飛んできたミサイルで、日本に甚大な被害がおよんだとしても、それは単発的なミサイルになるわけで、そう考えれば

  • 主戦場

は韓国のソウルであって、そこにおいて壮絶な「内戦」となる。
早い話がなぜ、あれだけトランプが戦争を「煽って」いながら、実際には戦端が開かれないかといえば、こんな「地獄絵」を起こしても、だれも得をしないからなのだ。トランプにしてみれば、あわよくば、この「騒乱」を使って、韓国と日本の弱味を握って、貿易赤字を解消したい、。と狙っているわけであろう。トランプにしてみれば、こっちの方がよっぽどアメリカ国内にとって「お得」なのであって、実際に戦争を行っていない相手と戦争を行うことなど、なんのメリットもないわけである(まあ、トランプのようなビジネスマンにしてみれば、こういった損得感情は、ヒラリー以上にあるのかもしれない、とは思うわけであろう)。
前回、アニメ「ガルパン」について書いた。そのとき、このアニメでは、ほとんど病的なまでに、JKの制服のスカートの下のパンツを描かなかったことについて、おそらく、そのストイックな態度が、大洗町聖地巡礼的な「町の人たちの受容」を結果した、ということを書いたわけだが、ここにある境界線は、ようするに

  • 性的<暴力>

の問題がいかに「デリケート」であるのか、を示していたと思っているわけである。
性表現とは、結局のところ、「暴力」と繋がっている。つまり、性的衝動は、その「対象」にされる側にとっては、「暴力」の被害者になることを意味する、と解釈されている。
そういう意味において、性の問題は暴力の問題だと認識されている。
アニメ絵が問題というより、そのアニメ絵がどこかしらそういった「女性のセックスシンボル」を強調したものと受けとられるとき、その表象が、なんらかの

  • 暴力

の発動を予期させるとき、その「表現」は物騒なものとして社会から扱われることになる。そういった意味において、アニメ「ガルパン」は一方において「戦車」という「暴力」そのものを描きながら、大洗町の人たちに、(性的な暴力を徹底して排除している)という受容の形によって、受け入れらた、というわけなのである。
私はここにこそ、なぜ日本がここまで「平和」なのか、犯罪が少ないのかの決定的な意味をもたらしていると思っている。つまり、日本においては、ここにある「性の暴力」を、うまく

できている、ということを意味している、と考えるわけである。例えばアニメにしても、若い人たちの「リテラシー」が高く、おそらく欧米の一般的な基準では、全て「ロリコン」の一言で「性犯罪対象」とされるものが

といった感じでの、視聴者側の「受け入れ」のレベルが上がっているわけである。
おそらく人類はこの「性」の問題になんらかの「解決」をつけられさえすれば、「平和」になるのではないか、と思っている。それは、なぜ北朝鮮アメリカが戦争を行わないのかを説明する。つまり、もしも北朝鮮アメリカが戦争をしたとしても、なにもお互いにとっての

  • 性的な衝動

にメリットをもたらさない、とお互いが考えるからだ。つまり、お互いがそういった「反モラル」を目指して戦争をするほどに、そういった行為がなんらかのお互いの「見返り」があるものと考えなくなっている、ということなのであろう。もっと言えば、そんな

  • 不道徳

なことをやって、世界中の人たちから軽蔑されることの方が恥ずかしい、という感情が大きくなっている。しかし、そうであるからこそ、日本の「従軍慰安婦」問題は何度も何度もむしかえされる。それは、明らかに日本側がこのことを

  • 反省していない

という意図が見え見えだから。では、なぜ日本は従軍慰安婦を反省できないのか? おそらくそれは、帝国日本軍の従軍慰安婦の行為が「天皇の命令」で行ったと解釈されているから。天皇の「命令」ということは、靖国に祀られる存在だということになり、そういった人達が「性暴力の加害者」だったということを、どうしての日本国内の論理からは正当化できないのだ。もしも、彼ら従軍慰安婦の人たちに性暴力を行った加害者である帝国日本軍の将校を「非難」するとするなら、必然的に「天皇」の責任に及ばざるをえない。しかし、国内のロジックにおいては、天皇の「責任」を問うことができない。よって、次から次へと、

といった、性暴力を「肯定」するかのロジックが、日本の国内的な文脈では繰り返される。しかし、こういった発言はある意味の「当事者」の側である、天皇家の人たちにしてみれば「どん引き」の一言なわけであろう。そもそもの最初から、こんなことは問題でもなんでもない。一部の戦前の軍関係者が、自らの「名誉回復」にからめて、こういった「トンデモ」発言を繰り返しているだけ、だと受けとらざるをえないわけであろう。
そういう意味においては、この問題は時間が解決していくことは明らかだと言うしかない。
しかし、たとえそうだとして、この問題は本来どういった扱われ方をするべき題材なのだろうか?
なぜ日本の、特に都会において、都会の通勤ラッシュにおいて、ほとんど「暴力」を見かけなくなったのか。一体、なぜこんなにまで「平和」になったのか。もちろん、暴力がないわけではない。帰りの終電間際の酔っ払いが、へべれけにからんでいる姿を見かけることはあるにはあるが、本当に殴り合いの、いわゆる「けんか」という喧嘩は、ほんとうに見かけなくなった。
この「平和」は一体、何を意味しているのだろう?
うまく説明できないのだが、おそらくなんらかの「性的な衝動」が、そういった「公的」な場への暴力に向かっていない、といった端的な事実が関係している、ということなのであろうが...。