経済学の目標の「効率」と「自由」の矛盾

今週の「週刊エコノミスト」を読んだ感想は、結局、「成長」というのは例えばGDPにしても、それは「物質的」な成長のことなのだから、その「成長」にばかりとらわれていても、それは本当の意味での人々の「幸せ」ではない、ということなのだと思うわけである。
結局、経済学者の言う「成長」つまり、GDPとは、

  • 物質的な成長

のことなのだから、それは例えば、「社会制度」が

  • どうあるべきなのか?

といったことに答えていない。どういった「社会制度」に人々が「幸福」を感じるのかと、「物質的な成長=GDP」は直接の関係がない。
このことはかなり本質的な問題なのであって、つまりはなぜ、リバタリアン

  • 効率

  • 自由

を混同したのか、に関係している。自由とは「愚行権」のことであり、そもそも「自己決定権」のことである。自分「が」決められることが「自由」なのであって、そもそもそれが「効率的」かどうかとは、まったく「独立」の話なのだ。
経済学者はなぜか、その二つを区別できない。
というか、むしろ、経済学者が考えていたのは、

  • (生物学における)進化

の問題であった。例えば、「再チャレンジ」の問題がある。ある経済活動で「失敗」した人がいたとして、その人にこの社会は「再チャレンジ」のチャンスを与えるのかどうか、という問題がある。そういった場合に、チャンスを与える社会が「自由」社会であり、まさに、「愚行権」ということになる。
築地市場豊洲移転は明らかに「失敗」である。つまり、この失敗は、東京都民がこの政策を転換するためには、今の方向を「選び直す」という手続きを行わなければならない。しかし、ここで「選び直す」と言うとき、大事なことは、

  • 以前のチャレンジは間違っていた(=愚行だった)

と「気付く」ことを意味している。つまり、大事なポイントは「愚行を権利として認めるのかどうか」が問われているわけである。
ところが、日本における「経済学」はなぜか、「(生物学の文脈における)進化論」として受け取られてきた。
つまり、お前には「才能」があるのかないのか、が問題とされたわけである。お前は生まれる前から、つまり、親の七光によって、このチャレンジの「才能」がなかったんじゃないのか、と問われるわけである。
よって、必然的に日本では一度でも「失敗」をすれば、再チャレンジは認められない。それどころか、「お前の血筋はこういった仕事に向いていない」と扱われて、一族郎党を含めて、この分野から抹殺される。
日本人は本当に、進化論とか、遺伝子が好きだ。こういう話が好きだ。こういう話ばかり行っている。日本人は「努力」という言葉を嫌う。口を開けば、

  • お前は「才能」がない

というわけで、人を序列づけることばかりやっている。
しかし、である。
このことが、逆に、日本の一つの特徴を決定づける。とにかく、絶対に「失敗を認めない」わけである。日本では、自分が「間違った」ということを認めることが、自らの「才能」のなさを証明することになるため、役所を中心として、絶対に間違いを認めない。間違うような奴は、才能がないと扱われ、人間扱いをされない。よって、どう考えても、たんなる「ケアレスミス」さえも、あらゆる

  • 屁理屈

を使って、それを間違いじゃないと言いつくろう。そういう意味で、日本人は「めんどうくさい」までに、言い訳ばかりを行っている、たんなる「間違った集団」というイメージで解釈されている。
なぜ日本人はここまで「進化論好き」なのだろうか? おそらくそれは、天皇制に関係している。日本のあらゆる「権威」は天皇を中心に構成されている。しかもその天皇の権威は、アマテラスオオミカミに始まる「神の血筋」を前提に構成されているのだから、あらゆる解釈体系が「血筋主義」になるのは必然なのだ。
しかし、そう考えてみると、哲学の文脈で問題となる「自由」と、一体なんの関係があるんだろう、と思えてこないだろうか。
人が「自由」に振る舞えば必然的に「間違う」であろう。というか、間違えながら、

  • 正しい答え

を「見つける」んじゃないのか、と考えるわけであろう。つまりは「自由」とは、それを認めよう、ということなわけだ。もっと言えば、そういった人々の「試行錯誤」を「肯定」するということは、人々が自らが考える

  • 人生の目的(=生きがい)

を自分で、いろいろな障害にぶつかりながら、「探していく」作業を、その一人一人の「営み」を「肯定」するということなのであって、そもそも自由とはそういう意味で、「人間の尊厳」の問題なしに成立していないのだ!
ところが、日本における「生物学的進化論主義」であり、「血筋主義」というのは、

という考えなのだから、そもそもの始めから、

  • なにが「効率的なのか(=なにが人々の幸せなのか)」

が「アプリオリ」に決まっている、という考えなので、そもそもの最初から、相性が悪いわけである。経済学とは「功利主義」のことである。つまり、功利主義の手法を使って、何が効率的なのか(=なにが人々の幸せなのか)を

  • 計算

できる、という「考え方」のことなのであって、しかしもしもそうなら、そもそも

  • 人々はなにが「幸せ」なのかを試行錯誤しなくていい

ということになるわけであろう。つまり、経済学は「自由はいらない」と言っているのとほとんど同値なわけである。

かつて、行動経済学者のウリ・ニーズィー氏らがこの短所を端的に示す実験をした。イスラエル保育所で、遅刻を減らすために罰金制度を取り入れた。そうすると、制度導入前より多くの人が遅刻するようになった。人々が「お金を払ったら遅れてもいい」と考えたからだ。その後、罰金制度をやめても、遅刻者の数はもとに戻らなかった。おの実験は、資本主義を取り入れることによって、いかに共同体を破壊するかが分かる。
(大垣昌夫「「利他性ある共同体」の構築必要」)

例えば、今回の東浩紀先生の「ゲンロン0」でも、資本主義しか道はないと、まるで、安倍首相のように「この道しかない」と資本主義原理主義者の面目躍如しているわけだが、ようするに資本主義とは

  • ルターによるカトリックの「贖宥状」批判とまったく同じ構造

になっているわけなんですよね。資本主義原理主義っていうのは、いわば、教皇カトリック派なわけです。

  • 贖宥状を買った人は「天国」に行けます。これしか「選択肢」はない(ドヤッ

というわけです。しかし、上記の引用の例が分かりやすいけど、資本主義原理主義者が言っていることは、

  • あらゆる悪を行っていい(=そういう「ふまじめ」は肯定される=お金持ちはどんな「悪」を行っても、お金を払えば許される)

ということなのであって、結局は社会のモラルハザードを起こしてしまう。どんな悪も、例えば、どうせお金持ちはタックスヘイブンを使って、税金を払ってないんだから、彼らの言う「正義」なんて嘘っぱちだよね、となってしまう(ハリウッドの「良い子ちゃんぶりっこ」が、アメリカの大衆から馬鹿にされるのは、そういうところにある)。

つまり、この二つの実験結果は、我々が「より多くのお金をもらって、自分のために使うこと」が幸せになると思っているのに、実際は、少額でも他の人のためにお金を使う方が幸福になる。これが資本主義の幻想である。もっとモノが欲しいという幻想が誘惑となり、その誘惑に人が負ける。幻想が悪循環になっていく。
ここで重要となる概念に「エウダイモニア」(キーワード)がある。共同体への貢献から来る充実感を指す。エウダイモニアは人間が本来持っているもので、「利他性」とも関連する。利他性とは、自分のことと同じように他の人の幸福を願うことである。共同体を大切にするためには、この利他性が必要になる。
(大垣昌夫「「利他性ある共同体」の構築必要」)
エコノミスト 5/2・9合併号 2017年 5/9 号 [雑誌]

しかし、「功利主義」によって、経済の「効率性」や「(物質的)成長」を

  • 計算

するためには、人々が「利己的」でなければならない。こういった人間の性質を「考慮できない」という構造になっている。それは上記の「資本主義原理主義」が

  • 資本主義の「徹底=超克」にしか道はない

と言っているのと同じであって、ようするに「ポストモダンの徹底=超克にしか道はない」と言っているのとまったく変わらなくて、ようするに、

  • 「超越」主義者

なんだよね。ヘーゲルじゃないけど、なんでもガンダムニュータイプになってて、「新人類w」だけが期待みたいなレトリックになっている。オウム真理教の信者が理不尽な「修行」によって、自らを「否定」した果てに「悟り」を見出すように、とにかく

  • 超えろ<幻想>

を生きている。東浩紀先生がデビュー作の頃から、執拗に柄谷行人を「否定神学」と言って、彼を貶めてきたわけだけど、彼が今、なんと言っているのかを考えると、こういった「レトリック」に真面目に付き合う意味なんて、最初からなかったことを思い知らされる。

東 (中略)しかしそれは、ぼく自身のこれからの実践と関係した話でもあります。だから、第二部が第一部に比べて分かりにくいのは当たり前です。そもそも、分かりやすい説明なんてものはすべて否定神学なんですよ(笑)。
(「東浩紀氏インタビュー」週刊読書人2017年4月28日号)

東 そうです。「郵便的マルチチュード」とは、喋って伝えるようなものではない。それは行動で示すしかない。
(「東浩紀氏インタビュー」週刊読書人2017年4月28日号)

ジャック・デリダの中期の作品がほとんど意味不明の「言葉遊び」であったように、東浩紀先生もある時期から「理論的」なものは、本質的に「間違っている」といった、ある種の「神秘主義」の方向に向かう。その延長で柄谷行人を批判するわけだが、しかしその代替として示される東先生の態度は

  • 理論化を「あきらめる」

という方向であった。そしてその「実践」は完全に、政権与党の「御用学者」として振る舞うことであったわけで、つまりは、理論的には「保守派」を踏襲することしか言わなくなる。
しかし、おそらくここにこそ、決定的な違いがある。
柄谷行人は「批評とポストモダン」において、自分がアメリカから戻ってきたとき、まるで「ポストモダン」の論客として日本の文脈で扱われていたことに違和感を表明していた。つまりそれは、ポストモダンと呼ばれていた理論家を評価するかしないかといった話以前に、そんな単純な話じゃない(=自分のやっていることは、ポストモダンじゃない)という明確な問題意識があった。
ところが、この問題意識が、東浩紀先生になると、まったく「反転」して解釈されている。むしろ、ポストモダンは「否定的」な概念ではなく、「肯定的」な、ほとんど「生き方」と同じような意味で解釈される。つまり、どうせ理論なんて「嘘」なんだ、と(この最も醜い「比喩」が、『存在論的、郵便的』で示された「ゲーデル」を巡る「トンデモ」理論なわけであろうw)。ようするに、東先生はここで、柄谷の一切の仕事を「根刮ぎ」全否定できた、と解釈した。
しかし、その後に残されていたものは何か? 例えば、それはオウム真理教が実践していたような「修行」のようなものであって、それはもはや、理論ではない。なんらかの「実践」という言葉で示される。なんだかよく分からない、パフォーマンスであった。一切の「理論」を「虚偽」として否定したとき、むしろ、

  • 理論でない理論

という形で、「保守派」のレトリックが彼によって「肯定的」に解釈される。
大事なポイントは、柄谷においては「ポストモダン」という用語自体が最初から最後まで「否定的」な内容のものでありながら、彼らフランス現代思想の論客との緊張感がずっと続いていたのにも関わらず(というか、彼らフランス現代思想の論客も柄谷も、同じく「マルクス主義者という一点においては同じであったわけであるが)、東浩紀先生にはもはやそういった理論的な緊張感はなくなっている。ポストモダンは最初から自明の前提になり、もはや、それを「乗り越える」か「乗り越えない」かの二択しかない。ポストモダンとは今を生きる前提なのであって、これを肯定的以外に解釈する理由すら思いつかない。
しかし、である。
正直、東先生のこういった「反理論的神秘主義」は、ついていけないレトリックに思われる。それは、そもそもどんな自然科学的理論(=モデル)であろうが、その有効性に限界があることなど自明だからだ。しかし、そこの限界があろうと、それはそれなりに、その狭い範囲では、一定の有用性が正当化されうるから肯定されるのであって、私にはこの東先生の「滑稽」な勘違いは、『存在論的、郵便的』において、まさに演じられた、

に今だに、自ら自体が「縛られている」という印象をぬぐえないわけである...。