武田綾乃『立華高校マーチングバンドへようこそ』

結局、世の中には二つの「表現」があって、一つはいわゆる「抽象」とか「表象」と呼ばれているもので、ある直接的な対象そのものを記述しないで、なんらかの別の表現によって、その指示しようとしている対象を解釈するという手段であって、こちらはなんというか、直接にその言いたい対象を「記述」したいという意味で

  • メタ

の思考と呼ばれたりする。こういった方法の欠点は、結局のところ、その表現したいものを別の何かによって代替するのだから、この時点である疑問があるわけである。つまり、どうしてそれによって「正しく」相手に意図が伝わるのか、という疑問である。
つまり、こういった手法にはある種の「傲慢」さがうかがえる。こういった手法を実践している側が、なぜこの手法によって相手に言いたいことが伝わると思っているのかの理由が分からない。つまり、一つの根本的な疑問が浮かんでしまう。
つまり、どういうことかというと、ある「反転」が起きるわけである。メタの思考は、そう思考している側がなぜか「上から目線」になる。自分の表現を理解できない視聴者が、能力が低いから、彼らが悪い。大衆はバカだから、自分の優秀さを理解できない。だから、俺は売れない。そういった

  • 被害妄想

にとらわれていく。
しかし、よく考えてみると、これはおかしい。自分が相手を説得できなかったことを、相手のせいにしている限り、そいつは一生売れない。勝手に売れない貧乏作家として滅びればいいんであって、逆ギレしてみたところで、その炎上マーケティングで注目を集めようという別の「メタ」で、盛り上がるしか能がない、というわけだ。
なぜ「抽象」はダメなのか。
それはそもそも、「抽象」で何かが伝わると考えていること自体が、「ニセモノ」だからだ。抽象は一種の「隠し」である。つまり、自分が考えている「本音」を隠して、相手を「操作」するために使われるのが「抽象」なのであって、最初から「ニセモノ」で他人を操作しようという「意図」が隠されている。
ようするに「抽象」というのは、

  • 裏に何かを隠している

ということを意味した「ニセモノ」なのであって、それ以上でもそれ以下でもない。
しかし、少し前の世代の人たちにとっては、そんなことは自明のことであったと思われる。例えば、柄谷行人であれば、中上健次との緊張感は自明であった。彼の文芸批評は、中上の小説との緊張感においてあったのであって、そもそもそこから離れて考えられたことはない。
なぜ小説は重要なのか。それは小説の場合は、これが「時系列」にされるため、一種の「矛盾」が許容されないからなのだ。ある時、ある感情が主人公をとらえたと記述したなら、絶対にその感情と矛盾したことを、過去や未来に記述できない。そして、もちろん他の登場人物に対しても同じことが言える。
ここには「時間」があるため、メタという「真実隠し」が成立しない。
掲題の小説は、京アニの「響けユーフォニアム」のシリーズものとして、そのアニメの主人公の黄前久美子と中学校で同じ吹奏楽部だった佐々木梓という女の子が主人公のストーリーとなっている。
とはいっても、梓も立華高校というマーチングバンドで全国優勝をするような高校に推薦で入学するような子どもなので、ストーリーは似ているといえば似ている。
確かに、そう考えてみると、この二つの小説は似ている。ビルドゥングス・ロマンだということになる。梓は確かに吹奏楽の「エリート」で、中学の頃から飛び抜けた才能を発揮するわけだが、じゃあ、なぜ彼女がそこまで、吹奏楽にのめり込んだのかというところになると、梓が幼いころに離婚をして母親一人に育てられたわけだが、その母親が仕事が忙しく、家を空けがちだったという事情が関係している。
作品は表向きは順調に一年生で「レギュラー」になった梓が、一方で人一倍、遅くまで残って努力をしている、そういった「成功」した彼女を描きながら、他方において、彼女のある「トラウマ」が「想起」される形で平行して描かれる。中学の頃、とても親しかった同級生とある時期から、喧嘩をして仲違いをしたことが、ある梓自身の「性格」に関係していることを彼女自身が直視できない。そして、そうであるがゆえに、

  • 同じこと

を何度も繰り返してしまうという「悩み」について。

「利用して何が悪いん?」
「え?」
予想外の反応に、梓はとっさに顔を上げた。頬の筋肉を強張らせる梓とは対照的に、彼女の声音は軽やかだった。
「あってさ、友達同士なんてそれでもべつによくない? 互いに得るものがあるならいいやんか」
「ですけど、」
「だいたい、利用するってだけじゃないやろ? 好きじゃないと、そもそもそこまでいろいろやってあげられへんって」
「でも、」
梓はそこで口をつぐんだ。許しを請うように、梓は自身の過去を告白する。胸の奥にくすぶり続けている、梓の最大のトラウマ。芹菜のあの冷やかな眼差しが、梓の脳裏にフラッシュバックした。
「うち、なんも言えへんかったんです。『梓にとって、私は何?』って友達に聞かれたとき、なんて言っていいかわからへんかったんです。ほんまはあの子にちゃんと伝えなきゃいけなかったのに。自分でも、わからんくなったんです。なんで自分があの子と一緒にいるのかが」
そうひと息にまくし立て、梓は唇を噛み締めた。
未来の手が、唐突にこいらに伸ばされた。また耳を引っ張られるのかと身構えた梓に、彼女はくすりと笑みをこぼした。その指の腹が、梓の首筋をするりとなでる。
「梓はさ、ほんまごちゃごちゃ考えすぎ。そんなん、その子のことが好きやから一緒にいたに決まってるやん。大事な友達や、って素直に言えばよかったんやって」
未来の口からこぼれた『好き』という二文字は星屑みたいにキラキラしていて、梓には少しまぶしかった。この黒くどろどろした感情を、そんなに美しい言葉で表してもいいのだろうか。
表情を険しくした梓の髪を、未来がくしゃくしゃと乱暴になでる。
「もう、梓ってほんな頑固やなあ。人間関係なんて、好きか嫌いかの二択でええねんて。あみかの件だってそう。確かに、初心者としてのあみかには、してやれることはなくなったかもしれん。でも、友達としてのあみかにならこれからも手助けできることはいっぱいあるやん。で、逆にあみかが梓にしてあげられることもたくさんある。一方的に助けてあげるばっかじゃなくて、たまには助けてもらったらいい。そしたら、ちょうどええ感じになれるやろ」
未来の手が、梓の頭上から降りてくる。その切れ長の瞳が、一瞬だけケースに収まったトロンボーンのほうを向いた。長い睫毛が微かに震える。彼女は何かをためらうように一度もごり唇を動かし、それから梓の手を取った。目が合う。本心をのぞき込むように、未来の澄んだ双眸が梓の顔を映し出す。
「私は梓のこと好きやで」
そう、彼女は言った。その力強い声が、梓の鼓膜を強く揺さぶる。ひゅっと喉が鳴った。緊張で、喉が乾いていた。
「何かをしてくれるから梓のことを好きなんと違う。助けてくれるからとか、そんなことは関係ない。ただ、普通に、好きやねん。それってそんなにおかしいこと? 何かをやってくれる人しか、必要としたらあかんの?」

梓は、父親のいない家庭に育ったからか、自分の「弱い」ところを他人に知られることを極度に嫌う。それは、自分が「同情」されることを受け入れられない。彼女のあらゆる行動原理は自分が他人をマウンティングできているかどうかだった。だからその関係が真剣かどうかなんてどうでもよかった。この「友達ごっこ」がどんなに馬鹿馬鹿しいものであったとしても、自分が友達から仲間外れにされていなければ、とにかく、あとはどうでもよかった。吹奏楽で、極端なまでに努力をして常に、トップを競うような場所に自分を置かないと安心できないように、他人から「頼られる」立場に自分がいないと

  • 安心

できない。しかし、これは逆に言えば、彼女に頼って彼女の回りに存在している間は「安心」できるが、そういった回りが、いつからか「自律」して、彼女と「並び立つ」ような場所を目指し始めると、

  • 不安

がもちあがってくる。自分という「超越」的な場所を他人から、脅かされていると感じ始め、どうしてもそういった彼女たちとうまく距離を保てない。
上記の引用は、そういった梓の「トラウマ」からの悩みを、未来先輩が聞いてくれている場面となる。ここで未来先輩が言っていることは、こういった梓と「芹菜」や「あみか」との関係と「同型」のものが、先輩の「栞」と「未来」の間にもあった、ということを示唆している。つまり、確かにここにおける未来は「先輩」ではあるのだが、むしろ、「芹菜」や「あみか」が、反対方向から「梓」をどう見ているのかを、「栞」と「未来」の関係を通して教えてもらっている、という構造になっている。
上記の引用で未来先輩が言っていることは、梓が「芹菜」や「あみか」に向けていた感情は、

  • 方法や手段

といったものではなくて、

  • 存在

に関係した次元のものだったんじゃないのか、と言っている。

「私だって、好きじゃなかったら友達なんてやってない。あのときの私には、梓が必要やった。好きだったの。だから、私を置いてこうとするアンタが許せなかった」
「うちだって、芹菜が必要やったよ」
絞り出した本音に、芹菜は脱力したように両手を下ろした。
「知ってたよ、そんなの」
吐き捨てるようにそう言って、芹菜はそのまま立ち上がった。急に消えた重みが、なぜだか名残惜しかった。ソファーから離れ、芹菜はそのまま自身の荷物を肩にかける。むき出しになった肩の皮膚を、バッグの紐が締めつけた。
「もう帰るん?」
梓は慌てて上半身を起こした。フン、と芹菜が鼻を鳴らす。
「話は終わったでしょ」
「そうやけど、」
口ごもる梓に、芹菜は呆れたように大きくため息をついた。
「べつにさあ、もしまた話したければ連絡でもなんでもくれりゃあいいやん。遠くに住んでるわけでもないんやしさあ」
「いいの?」
「勝手にすれば」
そう言って、芹菜はぐしゃぐしゃと自身の髪をかき回した。せっかく綺麗にセットされていたヘアスタイルが、一瞬で乱れたものになる、短く切りそろえられた前髪を見上げ、梓は小さく口元を綻ばせた。処世術を身につけても、彼女の素は相変わらず無愛想で扱いにくい。だけど、その刺々しい振る舞いの奥にある臆病な本音を、梓は確かに知っている。好きだった。そう、芹菜は梓に言った。それだけでもう、充分だった。

こうやって見ると、芹菜は一貫している。彼女は自分を「うとましい」と思う感情をごまかす梓に、正面から向き合うことを求めて、戦った。そこに妥協はなかった。しかし、だからといって、この事実に向きあおうとしない梓を一度も見捨てようとはしなかった。
彼女は今でも、梓に感謝しているのだ。自分が教室で一人ぼっちだったとき、最初に自分を受け入れてくれたことを。その感謝は離れた後も消えなかったのだ...。