阿満利麿『日本精神史』

道徳的な「傾向」性も、結局は「進化」論的な意味での「進化」だよね、という説明は、そういう意味では宗教だろうがなんだろうがそうだ、ということになる。
そもそも道徳は、子どもに対する「しつけ」と区別ができない。しかし、そういうふうに言ってしまうなら、宗教だって同じであろう。子どもは産まれるとすぐに、親によって「洗礼」を受けさせられて、どこかの宗教に入らされる。その場合、その宗派に入信したことが、別に、その子どもの「意志」であるわけではない。
こういった「進化」論的な説明を行う人は、つまりは、道徳や宗教が

  • 合理的でない

ということが言いたいわけであろう。合理的でないのに、なぜ「従う」のか。いや、こういった「命令」に従ってはならないと言いたいわけである。なぜならそれが、「非合理的」だから。
しかし、そこまで言うのなら、道徳や宗教の「廃止」を目指して、運動を始めればいいのではないか。道徳や宗教は「非合理的」だから、人間社会からこういったものをなくそう、と。それだけではない。神社もお寺もお墓も、全部壊すべきだ、と。お祭りも止めるべきだ、と。そんな「非合理的」なことは、と。
そして、一番の「問題」は

ということになるであろう。日本は天皇制を廃止すべきだ、と。そう言えばいいではないか。
しかし、彼らはそうは言わない。むしろ、彼らはどちらかといえば、「保守派」的に振る舞う。それは、基本的には左翼は「貧乏」だからなのだろう。物書きがお金をもらえるのは、右の勢力だ、ということになるわけで、人間関係から必然的にそうなる、というわけであろう。
例えば、ある農村共同体を考えてみよう。その村では、秋になれば、収穫の季節で、村人総出で、収穫を行う。しかし、ある家の子どもが、収穫の手伝いを嫌がったとしよう。自分は、勉強がしたい。そんな手伝いで時間を無駄にしたくない、と。しかし、その収穫にもし、その子どもが参加しないと、一定の割合の

  • 損失

が発生することが分かっていたとする。そうした場合、その子どもを親が「強制」することは「非人道的」であろうか? その子どもが収穫を手伝わないことによって、その村の収穫が一定の割合少なることが分かっている。そして、そうなったために、冬の飢えをしのぐ時期に、食べる食料が足りなくなるとするなら、それでも子どもの

  • 自由意志

は尊重されるべきだろうか?
暴力の「否定」は本来、こういった文脈で考えられなければならない。子どもは幼いとき、さまざまな世の中の「理屈」が分からない。外に走って、道路に飛び出せば、車にひかれて死ぬ。だから、親はなんとして、子どもの「体」に、道路に走って飛び出ないような「慣習」を叩き込まなければならない。なぜなら、それができなければ、子どもは死ぬからだ。
そもそも、子育てには、こういった「暴力」性が潜んでいる。つまり、暴力の介在しない子育てなど存在しないのだ。
こういった視点からカントの道徳論を考えることもできるだろう。なぜ、カントの道徳律は「定言命法」という形をとるのか。つまり「命令」なのかというなら、それはなんらかの「人類社会」を保存するための「形式」になっているから、と。そういう意味で、それは村社会の「子ども」への暴力が、上記のような形式になっていることと対応している、と。
合理性の議論は、ときに「滑稽」でさえある。もしも、核爆弾を打つ「スイッチ」が目の前にあったとするなら、そのスイッチを押すだろうか? カントの道徳律なら「押すな」と「命令」のするのだろう。ところが、

  • 合理性の哲学

はそう考えない。もしも宇宙人がやってきて、地球の侵略を始めたら、その「核爆弾」でやっつければ、地球は「救われる」のだ、とか。もしも、未来からタイムワープして、未来人が、地球を侵略を始めたら、その「核爆弾」でやっつければ、地球は「救われる」のだ、とか。
ところが、そういった人が考えることを忘れているのは、たとえ宇宙人や未来人を殺せたとしても、

  • 人間も一緒に滅びる

ということなのだ。
おそらくは、上記の農村共同体の例はそういうことを言っているわけである。

堀一郎の『日本のシャーマニズム』によると、日本宗教の研究家であるロバート・ベラは、日本の諸宗教は、異なっているよりも同質性の要素が強くて、どの宗教も「日本宗教」として、一括できるのではないか、とのべている。その上で、「日本宗教」には二つの特徴が見られるという。
一つは、神、君主、領主、首長、家長、両親などに対する、尊敬と感謝と報恩の思想が強いこと。二つはこれらの神や君主、領主、首長、家長、両親などに対する「自己移譲、合一同化」が見られる、と。その結果、神の人間化(化身、権化)と人間の神化(人神)が自由に行われ、「社会的上位者は下位者に対して一種のカリスマをもつだけではなく、宗教的カリスマの性格を帯びてくる」とも指摘している。

それは、一九五四年に[柳田國男]自らが編纂した『日本人』(毎日新聞社)のなかで、つぎのようにのべられている。

日本では島国でなければ起こらない現象がいくつかあった。いつまでもあの人たちにまかせておけば、われわれのために悪いようなことはしてくれないだろうということから出発して、それとなく世の中の大勢をながめておって、皆が進む方向についていきさえすれば安全だという考え方が非常に強かった。いってみれば、魚や鳥のように、群れに従う性質の非常に強い国なのである。

私は日本の「天皇」性の問題の本質は天皇にはないと思っている。それは、天皇ではなく、農村共同体の

  • 飢饉

への恐怖こそが本質だと思っている。何年か飢饉が続けば、村は滅びる。たとえば、火山が爆発して、20年くらい、日がささなくなれば、人間が滅びるだけでなく、地球上のほとんどの生物が滅びる。つまり、これは少しも「空想」の話ではなくて、実際に「簡単」に起きてしまうし、人類はそれによっていつ滅びるのかのカウントダウンをしていると言っても過言ではない。
つまり、この「飢饉」への恐怖が、

  • 村人への「暴力」

に変わる装置があるのだと思っている。基本的にはこういった「暴力」の延長上に、「天皇」への恭順であり崇拝が位置付けられているのであって、本質はなんかのこういった「暴力」性を本当はよく考えなければならいのだろうと思っている...。

日本精神史: 自然宗教の逆襲 (単行本)

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