三矢太一郎『日本の近代とは何か』

日本近代の「秘密」について考えるとき、どうしても天皇制について考えないわけにはいかない。それは、おそらく、日本における「天皇」が

の代替物として構想されている、ということに、現代においてもあまり認識されていない、ということが非常に問題なのだと思っている。
その「構造」がどうなっているのか、ということであるが、日本にキリスト教が渡来したのが、およそ織田信長の時代であり、豊臣秀吉徳川家康の時代まで、その勢力が日本を覆ったことを考えたとき、それ以前の天皇制とは、そもそも

のアナロジーにおいてのみ考えられていた。つまり、儒教における「天」との関係からのみ考察されていた。日本書紀飛鳥時代から始まり、南北朝時代北畠親房の『神皇正統記』には、そういう意味では「儒教」における「正統性」をまさに踏襲した形でのすっきりした議論がされている。
この状況が一変するのが、江戸時代の本居宣長なのだ、と思っている。ここにおいて、彼は「古事記」の「読解」を始める。古事記は彼以前においては、重要視されていなかった。それは、正統なる「日本書紀」があるということが基本とされていたからで、古事記がそもそも「読める」ということの意味さえ、不分明であった。
本居宣長はおそらく、キリスト教を強く意識している。つまり、古事記とは「聖書」なのだ。ここには、神のことが記されている。それは、人間が

  • 勝手に決めた

ものとは違った、人間の間のとりきめごととは違う「自然」があるからこそ、従わなければならない重要さが示されている、と理解された。本居宣長の漢意(からごころ)批判とは、儒教という「人間が勝手に決めた」とりきめ事だからダメなんだ、というレトリックになる。それに対して、古事記=聖書は、神代(かみしろ)の時代が記述されているとされ、そこには神の「意志」が示されている、として重要視される。なぜ、本居宣長は、「もののあはれ」を重視するのか。それは、漢意(からごころ)である儒教のように、人間が人間同士で勝手に決めたもの(礼)ではない、

  • 自然に表れる感情

だからこそ、そこには「神の意志」が反映している、とされる。つまり、感情は神代(かみしろ)の時代に「通じる」、神の「意志」そのものなのだ。
ここには、まさに、現代における「ハイエク」の自生的秩序論に通じる認識があらわれている。この現代社会が「混乱」しているのは、まさに儒教が象徴するように、人間同士が勝手な「ルール」を決めるから、というわけである。むしろ、そういった「ルール」は、人々の自然な反応を阻害し、「本来」の人間性を毀損してしまう。むしろ、

  • 無秩序から生まれる<秩序>

つまりは「自生的秩序」こそ、無類の「理想」として顕彰される。
神道はそもそも。儒教である経学に対する「緯学」としての文脈で解釈されてきた。つまり、中国における土着の民俗宗教として。しかしそこに、キリスト教がオーバーラップすることで、

  • 太古

の世界における、神道キリスト教の「通底=同一性」が想定されることになる。つまり、

というアナロジーである。はるか太古の神話の世界では、日本の「古事記」と「聖書」の

  • 内容

がシンクロする、というわけである。もちろん、これはデンパ系的なトンデモではあるが、大事なポイントはそこに「太古」の神話的世界を「説明」する何かとして理解されて、むしろそこから

  • 現代

の正統性を論証する形式になっている、ということなのだ。
ここで、逆に「儒教」とはなんなのか、という角度から考えてみよう。論語に鬼神を語らず、とあるように、基本的に儒教経書として「緯書」を遠ざける。つまり、「天」を中心に理論体系が作られているにも関わらず、それをアニミズム的な「神」、。人格神の論理として、構成されていない。つまり、どちらかというと「自然科学=物理学」として説明していく。例えば、儒教における「礼」は、人間が人間との間にとりきめる「ルール」なのであって、そこに神による「正当化」は、少なくとも、表面的には必要とされない。
つまり、儒教は少し「人工的」かつ、複雑なわけである。一方に国家の命令があり、他方に父親への親孝行があり、そもそも、どちらを優先すべきなのかは、儒教においては少しも自明ではない。中国の伝統においては、当たり前のように後者を優先するケースが歴史書において語られてきたのであって、そういった視点で考えるなら、中国は昔からアナーキズムだと言いたくなるわけである。
しかし、である。
だからといって、中国が「非宗教」的な社会なのか、と考えるとそれも少し違うと言わざるをえない。それは、ようするに、儒教だってある意味においては「宗教」なんじゃないのか、とは言えるからである。それはつまりは「市民宗教」といった解釈として。例えば、「礼」を考えてみよう。日本人の慣習として、普通に私たちは「おじぎ」をしているが、ここには本当に「宗教」がないのかと言われると、よく分からなくなってくる。
つまり、ここで言う「市民宗教」は、これが宗教なのかなんなのかというより、「宗教の代替物」を儒教の体系の中で実現している、といった側面がある、ということなのだ。
さて、「近代」である。
最初に言ったように、日本の近代に、深く天皇制が関係したことは、上記の文脈が深く関係した。

一九三五(昭和一〇)年の天皇機関説事件において、憲法学者美濃部逹吉の学説が反機関説論者によって攻撃された際に一つの争点とされたのが、天皇詔勅は批判の対象となりううかという問題でした。詔勅批判は自由かという問題です。美濃部は、詔勅の責任は、それに副著した内閣総理大臣以下の国務大臣にあり、天皇は無答責であって、したがって天皇を輔弼する国務大臣の責任が問われる詔勅批判は自由であるとの見解をとっていました。
しかし、大日本帝国憲法の下で国務大臣の副著がない例外的な詔勅がありました。憲法が施行された第一回帝国議会開会(一八九〇年一一月二五日召集、一一月二九日開院式)を一ヶ月後に控えて、一八九〇(明治二三)年一〇月三〇日に発せられたいわゆる「教育勅語」がそれです。

大事なポイントは、そもそも「神」は人間ではない、ということにある。では、そこで言う「人間」ではないものをどのように切り分けるのか、ということになる。なぜ教育勅語が重要なのか。それ以外の、天皇の「発表物」は、上記にあるように、そもそも内閣が作成したというか、内閣が「認めた」ものでしかなく、そういう意味では、直接の天皇の言葉ではない。ある意味。、内閣が勝手に作ってそれを天皇に発表させているだけとも言えるわけで、それは本当の天皇の意志ではない。しかし、教育勅語は唯一の例外として、そういった「副著」の過程を経ていないとされているから、

  • 直接の「神」の言葉

とされたわけである。

勅語発布の翌年、一八九一(明治二四)年一月、各地の官立学校では勅語奉読式が行われました。このうち内村鑑三がいわゆる不敬事件をひきおこした第一高等中学校の場合が次のように官報(第二二六〇号、明治二四年一月一四日)に報告されています。
「第一高等中学に於ては今般御宸署の勅語を拝受せるを以て本月九日午前八時倫理講堂の中央に天皇・皇后両陛下の御真影を奉掲し其全面の卓上に御宸署の勅語を奉置し其傍に忠君愛国の誠心を表する護国旗を立て教員及生徒一同奉拝し而後校長代理......勅語を奉読し右畢て教員及生徒五人づつ順次に御宸署の前に至り親しく之を奉拝して退場せり(文部省)」
内村は当日、嘱託教員として勅語奉読式に参加しましたが、敬礼が十分でなかったとして非難されたいわゆる不敬事件は最後の「奉拝」の場面で生じたと思われます。このようにして「教育勅語」は学校教育の中に滲透して行きました。天皇・皇后の「御真影」が小学校に普及したのも「教育勅語」の発布に伴ってでありました。

これに対して、憲法は大学教育の前段階ではほとんど教えられることはありませんでした。一般にイデオロギー教育と区別される政治教育は、憲法によって(あるいは憲法を通して)行われますが、その意味で大学教育を受けない多数の国民に対しては、政治教育はなかったといってもいいすぎではありません。

そもそも、憲法は学校で教えられなかった。学校で教えたのは、ひたすら「教育勅語」であった。つまり、国民は憲法のことを考えるな、と言われていたのと変わらない。ただただ「教育勅語」に「従え」と教えられた。
教育勅語に書かれている内容は非常にシンプルである。しかし、大事なポイントが書かれている。これは

  • 宗教儀式

なのだ。学校に入学した子どもは、毎日学校に行って何をやっているか。憲法なんて教えられない。ひたすら、御真影の前で「敬礼」をして、ひたすら、教育勅語を「奉読」して、これを毎日毎日、繰り返す。天皇の写真に向かって

  • 土下座

して、教育勅語の呪文のようにひたすら唱え続ける。
これを、学校を卒業するまで繰り返す。これを見て、学校が「宗教施設ではない」と、どういう理屈で思えるだろうか。というか。そもそも、明治の日本は、だれも憲法に従おうなんて思っていなかった。ただただ、教育勅語だけが

  • 聖書

であり、

  • 神の言葉

であり、それだけをありがたがって、生きていた。戦前の憲法教育勅語だったのであり、だからこそ、今でもなぜ戦後憲法に従わなければならないのか分からないという、そんなものより戦前の亡霊として教育勅語こそ

として、復活させなければならない、という「宗教国家」の亡霊が何度も甦るわけである...。