なんの確率?

東浩紀先生の『観光客の哲学』は、基本的にはいわゆる「ポストモダン」と呼ばれる人たちが言ってきたことであり、東浩紀先生自身も昔から語ってきたことを踏襲した内容になっているわけで、その構造は第一部の最後で、リチャード・ローティの『偶然・アイロニー・連帯』を参照しているように、ここでのローティの問題系を踏襲している。
ローティは基本的にはプラグマティストである。つまり、「普遍的な真実」という考えを認めない。しかし、上記の本では、その後の

  • 連帯

ということを語っている。なぜそれが可能になるのか、ということで彼が重要視するのが「アイロニー」なのだが、ここで言うアイロニーをより分析的に解釈すると、

  • 人間の動物性

の二つの様相に対して、より「後者」を全面に出していく、という形の「救済」になっている。つまり、アイロニーとは前者の立てつけでは解決しない矛盾を、後者の立てつけで「説明」してしまう、という少し「野蛮」な説明なのであって、いや、それじゃあ、なにも解決してないんじゃないのか、という反論はありうるのだろうが、そこは

  • 芸術家という<エリート>

による、「エイヤッ主義」でやっちゃおう(まあ、それがプラグマティストという意味ですから)という立てつけになっている。つまり、そもそも解決できない「壁」が目の前にあるのだから、それを普通の、つまり、「合理的」な理屈で解決できないのだから、だったら、なんらかの

  • 権威

によって突破するしかない、まあ、それが「保守主義」の言っていたことじゃないのか、という形で、安易にエリートの「特権性」を許容するし、そこに「甘い」ということなんだと思っている。
しかし、こういったローティの議論には、ある決定的な「前提条件」が隠されていて、それが「リベラル」という「理念」だというわけである。なぜ「リベラル」であることは捨てられないのか。つまり、上記の「プラグマティスト」という「絶対的な価値」の否定と矛盾しているんじゃないのか、と思われるわけであるが、それについて、上記の本で東浩紀先生は以下のように「まとめ」る形で、基本的には彼自身もそれを踏襲していること主張している。

公的なものと私的なものの分裂を受け入れるというのは、言い換えれば、自分の私的な価値観がたんなる偶然の条件の産物であることを認めるということだからである。ぼくは、たまたま日本人だから、たまたま男性だから、たまたま二〇世紀に生まれたからこのような信念を抱いているのであり、別の条件のもとではまた別のことを信じただろう、と想像をめぐらせることだからである。ローティはつぎのように記している。「自分のもっとも高位の希望を語るときの語彙が、すなわち、自分の良心そのものが偶然の産物であることを認めながらも、しかしなおその同じ良心に対して忠実であり続けるような人々を、二〇世紀のリベラルな社会はどんどん生み出しているのである」と。

ゲンロン0 観光客の哲学

ゲンロン0 観光客の哲学

しかし、ここで引用されているローティの言葉は、次のようなシュンペーターの言葉とそれに対するバーリンの説明に対して、ローティが「自分ならこう解釈する」としてまとめた言葉なわけである。

バーリンはそのエッセイを、「自己の確信の妥当性が相対的なものであることを自覚し、しかもひるむことなくその信念を表明すること、これこそが文明人を野蛮人から区別する点である」という、ヨーゼフ・シュンペーターの引用で締めくくっている。バーリンはこの言葉に、「これ以上のものを要求することは、おそらく人間のもつ癒しがたい深い形而上学的な要求というものであろう。しかしながら、この形而上学的な要求に実践の指導を委ねることは、同様に深い、そしてはるかに危険な、道徳的・政治的未成熟の一兆候なのである」というコメントを付している。

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

ローティが言っている「リベラル」とは、そういう意味でプラグマティストのことなのであるが、たんにプラグマテストという「無方向」の何か、というよりは、このアイロニカルな矛盾を

  • 自覚

しながら、「あえて」その自らの内面にある「良心」に忠実であろうとする人という形になっていて、だから、こういった「芸術家」は特権的なんだ(そうそういないのだから)、という立てつけになっている。
つまり、リベラルは「矛盾」なのだが、そうでありながら、「なぜか」リベラルはそれを「分かっているのに」、なぜか、それを選択し続けている人たち、という形で、だから「アイロニカル」にしか語れないのだが、そこになんらかの「希望」を見出せないのか、という立てつけになっているわけである。
ところが、上記の引用が示しているように、東浩紀先生の論点はそこにはない。
東浩紀先生にとって大事なのは、ローティにとっては「なぜリベラルな、良心の人がいて、その人たちが希望なのか」というところにはなくて、

  • 私たちは偶然だから「フェア」なんだ

という方に論点が変わっているわけである。上記の引用をよく読んでほしい。ローティが語っているのは

  • 自分の良心が今こうしてあるのは、それまでの、さまざまな<いきさつ>上のものであるのだけれども、たとえそうであっても、あえてそれをパブリックなものとして主張しよう

というプラグマティックな態度の話をしているのに、東浩紀先生は

  • 人間の<魂>は、たまたま、お金持ちの家に産まれたり、貧乏人の家に産まれたりするし、それと同じように、たまたは、東大に入れたり、入れなかったりするけど、それはみんな「偶然」なんだから、そういう意味で<フェア>なんだから、それに文句を言うのはおかしいよね

という方に論点がすりかえられているわけである。
ローティが言っている「偶然」は、本来は偶然と呼ばれていたものではなくて、ジョン・ロールズが思考実験として仮定した「無知のヴェール」の言い換えなわけであろう。もしも自分が、他の人ならそれをどう思うか、という問いかけなのであって、そもそもそれは「確率」的な話じゃない(というか、ローティ自身が「確率」と言わないで、「偶然」と言っている)。
ところが、東浩紀先生になると、彼のよく使う「誤配」という言葉の、解釈としての「確率」概念で、

  • たまたま

自分が今どうあるのかの「形而上学」として、整理されてしまう(そもそも、東浩紀先生には偶然性と蓋然性の違いがないのかもしれないw)。
なぜ、この東浩紀先生の解釈は問題なのか?
そもそも数学的な意味での「確率」とは「確率空間」のことである。つまり、「確率」というのは存在しなくて、「なんの確率」があるだけにすぎない。つまり、ここの議論が混乱しているわけである。たとえば、ある人が東大に入学したとして、それが「たまたま」だと言うとき、じゃあ

  • どれくらいの確率で?

と問うたとしよう。そうすれば、お金持ちの家に産まれれば、実証的に東大に入った割合は多いであろう。一部の進学校に入った人の割合は多いであろう。それは本当に

  • フェア

なのだろうか? つまり、確率というとき文系の人たちはすぐにそれを「(なんらかの意味で)フェア」な確率と考えやすい。しかし、それは私たちが一般に「大数の定理」や「中心局限定理」が示しているような意味で、性質のよい、正規分布的な世界イメージを勝手にもっている、ということを意味しているにすぎず、もっと言えば、まさに「文系」的な

  • 線形性

を保っているような世界イメージを勝手に仮定している、ということを意味しているにすぎない。なぜ、世界は非線形でないと言えるのか。
上記の例で言えば、「私の<魂>が、今ここにある<私>に宿った<確率>」を計算するとき、それが

  • なんの確率

なのか、を問うことと同じわけであり、それについて別に東浩紀先生は語っていないということが、そもそも東浩紀先生は何も語っていない、ということと同じであることを意味しているわけである...。