三本目の足

この前、軽いぎっくり腰になって、まあ、歩けないほどではなかったんだけど、それなりに歩くと痛い状況だったんだが、その時思ったのは、東京の駅や電車は若い体力のある「労働者」の場所なんだな、ということだ。つまり、あまりにも速く人々が移動していて、正直そのスピードに合わせることは、しんどかった。

これが毎日、お年寄りが感じていることだとするなら、まあ大変な話だな、と思ったという次第である。私の親もかなり高齢になってきて、だんだんと外を出歩くのも大変になってきているし、よく考えてみれば、お年寄りが「移動」をするというのには限界がある。本当はここにこそ「需要」があるのだが、基本的に世界は若者を基準にできているのだろう。

よく、妊娠している女性が、それを示すマークのバッチをカバンなどにつけているが、はっきりいって、あれはほどんどの人は気付かない。まったくもって、アッピール力が足りない。もっと目立つものにすべきだと思うわけだが、そうしたらそうしたで、いろいろ恥かしいのだろう。

上記の軽いぎっくり腰になったときも、それなりに体力のありそうに見える大人にわざわざ、席を譲ったりはしないわけで、いや。そういう人でも席を譲ってほしいときだってあるんじゃないのかな、と思ったりもするわけで、だったらどうしたらいいのかな、と思わなくもない。とりあえず、

杖(つえ)
をもって歩くというのは一つのアイデアなのかとは思ったわけだが、それなら、見た目からして、座らないとしんどそうだというのが分かるわけで。というか、普通に思うことは、電車は200%の人を乗車させるのもいいけど、たとえどこに立つことになっても、まるで

座っている
かのような「快適」なように乗車時間を過せるように、なんらかの「システム」を考えたらいいんじゃないのか、とは思わなくはない。きっと、なんらかのアイデアがあるはずなんだろうね。

そもそもなぜ人間は歩かなければならないのか。介助ロボットのような、なんらかの人間の体力を補助するAIによって、たとえ歩けない人でも移動できるようになるべきだと思うし、健常者でも場所をとらずに、立った姿勢で実質的に、座っているのと変わらない快適な姿勢を維持できるような、なんらかのツールはすぐにでも実現できると思うのだが。

つまり、なぜそういったものがすぐにでも実現されないのかと考えると、おそらく「ほとんど」の人が若い「健常者」だから、長時間立っていても「疲れない」し、むしろそうやって体を「いじめる」と

健康
になるという「信仰」があるからなのだろう(若者は苦労に「快楽」するのだw)。あまり、そういったことを気にしたこともないくらいに、毎日を「元気」に過しているから、あまりそういった「需要」が刺激されない、ということなのだろう、というわけで、こうして東京の街は、若い元気な人を「前提」にして、これからも進むというわけである...。