両雄並び立たずという言葉があるように、日本の戦国時代も織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの武将が「天下」を賭けて、戦ったというわけだが、なぜ徳川幕府があそこまで続いたのかを考えると、江戸に幕府を置いたから、というのが大きいように思われる。それは、日本地図を見れば、つまり、日本中の
- 水
が江戸に流れ込んでいることから分かるように、江戸は最初から
- 都市
になる可能性をもっていた。それは、今の東京の繁栄の「意味」を説明している。つまり、問題は最初から「権力」だとか「暴力」だとか、そういうことではなかった。水が潤沢にある、その
- 公共財
の潤沢さが、この「平和」を成立させたのであって、モノを国民に潤沢に「与え」れば、国家は平和になる。徳川家康が国民に江戸の潤沢な水を「贈与」した「から」、家康は「神」となり江戸幕府の平和を用意したのだ!
国家の平和は、そういう意味で、国家がどれだけ国民に「贈与」できるかにかかっている、と言うことができるだろう。しかし、国家はどうやって国民に気前よく「与える」モノを確保するのだろうか? 例えば、公共財について考えてみよう。きれいな空気、きれいな水は、そもそも、「普通」にしていれば「与えられる」ものではない。北京の空気の汚なさがよく示しているように、非常に困難な「事業」によって、成立している。それは、強権的な国家の「意志」が、さまざまな国民の
- 汚染活動
を抑制させる。国家は国民の「自由」を制限することによって、公共財を「獲得」して、国民に
- 贈与
するのだ!
しかし、それは家康が「才能」があったから、可能だった、みたいな話なのだろうか。つまり、天下を統一するということでは、秀吉も実現している。そして、秀吉は朝鮮や中国への「侵略」すら行っている。つまり、「能力」は「侵略」を結果する。常に他者の
- 上
でないといられない「エリート」は、上記の家康の「贈与」戦略に反して、あらゆるものを「破壊」しなければすまない。そうでなければ、自分が上であることを証明できないから。
エリートは国家を「破壊」する。なぜなら、彼らの存在自体が国家の「団結」に反するからだ。エリートは自らが「能力」があるから、国家の一翼を担っていると思っている。しかしもしもそうなら、国民は「能力」によって
- 階級
づけされていると解釈せざるをえない。そうであるなら、上記のリーダーによる国民への
- 贈与(=公共財)
の理由が説明できないのだ。さて。この問題を考えるための補助線はなんだろうか?
例えば、アニメ「ラブライブ」を考えてみよう。
二年生の三人が高校生アイドルグループ「ミューズ」を結成して、最初のライブを行った後、一年生の小泉花陽(こいずみはなよ)はミューズに参加させてもらえないかと悩んでいた。子どもの頃からアイドルにあこがれていた花陽であったが、一つ問題があった。それは彼女が極度の上がり症で、人前では小声でしか話せないことであった。
しかし、ミューズのリーダーの穂乃果は、花陽を迎え入れる。なぜなら、
- 自分たちも「ダメ」だから
と。彼女たちは「アマチュア」なのだ。自分たち3人も、それぞれダメだ。これが「プロ=エリート」なら、それだけで面接さえ受けさせてもらえないのかもしれない。しかし、彼女たちのアイドル活動は、あくまでも部活動の延長であり、そもそも、「学園活動」なのだ。これは、学校内の行事であり「自治」の範囲となる。学校の教師によって「指導」され、許されている、ということになる。
しかし、である。
そう考えてみると、「政治」とは「アマチュアリズム」そのものなのではないか? 選挙で選ばれることは、別にお金を払ってやってもらうことでもない。しかし、だからこそ、
- ダメ
だからこそ、国民が「団結」する。ダメは国民を引き付ける。ダメを「中心」にして国家は善であり「徳」を実現する。ダメだから私たちは生きるのだ(エリートはダメ「じゃない」と自殺する。漫画「天」のアカギを思い出そうw)。ここには、エリートの「才能」や「悟り」に反する形での、国民への強力な
- 贈与
の理由があるのだ...。