河野裕『サクラダリセット』

今、アニメ版の第10話が終わったところで、ちょうど原作の第三巻の最後が描かれた。アニメ版は、おそらく時系列で原作を並べているところがあるのだろう。
正直、原作の最終巻の第七巻までを駆け足で読んだ感想としては、うーん、といったところだろうか。
なにが、自分を満足させなかったのかと考えてみると、本質的なところで、この作品は何が描かれるべきだったのか、といったポイントが弱い印象を否めないのかな、といったところだろうか。
おそらく、原作の第一巻が示しているように、最初はこの作品は、春埼とケイの物語だったのだろうが、第三巻で相麻菫(そうますみれ)の話になった。つまり、相麻菫問題になったんだけれど、ここがあまりうまく描けなかったんじゃないのか、というのが正直な感想だ。
相麻菫は、未来視の能力をもっている。つまり、相手との会話をトリガーにして、その人が未来に記憶するものを「視る」ことができる。そういう意味で、はるか未来の結末まで、彼女は「観て」いたということになるわけだが、結局のところ、それが何を意味していたのか、といったところはうまく描かれなかった、というのが私の印象だ。
春埼の「リセット」の能力は、たったの3日でしかないが、時間をまき戻して、もう一度「やり直せる」という意味では強力だが、それはケイの能力がなければ、本来の威力を発揮しない。つまり、ケイの「記憶」の能力は、リセット前までの「記憶」を保持する、と。しかし、そういった設定にしてしまったがために、どうしてもこの作品は春埼がケイの「道具」になってしまっている印象を避けられなかった。つまり春埼の「主体性」を描けなかった。
他方、相麻菫はどうか?
相麻菫は、春埼が「リセット」した「未来」もすべて、「視る」ことができる。というかそれは、ケイとの会話によってケイの「未来に見ている」ものを介して、「視る」。しかし、結局のところ、それが何を意味しているのかが描かれることはない。つまり、相麻菫はそうやって未来を見た「後」において、一体、何を目的に生きるということになるのだろうか? ケイは相麻菫の「意図」をなんとか解釈しようと、何度も何度もチャレンジするが、そもそも「そういった」チャレンジも含めて、相麻菫はケイの「未来」を見てしまっているわけである。
ここのところが、正直、よく分からないわけだ。
結局のところ、作者は相麻菫を「どう」描きたかったのだろう? というか、彼女の「未来視」という能力をどう描きたかったのだろう? 「未来視」というのは相当に強力な能力なのであって、ケイと春埼のコンビで何度も行うことになる「リセット」による人生のやり直しでさえ、「未来視」するわけであり、そして結局、相麻菫はケイの「未来」をどう見たのだろう? 春埼の未来をどう見たのだろう? というか見たのなら、もうそれで「物語」は終わっているんだよな。そうじゃないのか?
ここのところが、どうもこの作品は曖昧なまま、終わってしまっている印象がある。というか、作者は本気で、相麻菫の「決着」をつけなければならない、という感覚がなかったんじゃないか。というのは、やはりこの作品は、ケイと春埼のコンビの作品なんだと思う。つまり、それ以外は基本

  • どうでもいい

ということにしておかないと、やってられない、ということなのではないか、と思っている。相麻菫はあまりにも

  • 魅力的

な登場人物であったがゆえに、作者は相麻菫の問題を投げ出さずにはいられなかった、ということなのだと思う...。