斎藤環『人間にとって健康とは何か』

言い方は変だが、私は日本のほとんどの哲学は、

  • 健康人の哲学

だと思っている。例えば、心理学を考えてみよう。人が「心の病」にかかれるのは、そもそも

  • 体が健康

だから、ということが実は前提になっている。すでに、体が「壊れて」いれば、そもそも。精神病にもなれないのだ。
そういう意味では、日本の哲学は、どこもかしこも「健康」にあふれている。吐き気がするくらいに。

ここに一つの逆説がある。悪人のレジリエンスが高く見えてしまうのは、一般的には「悪」のレジリエンスが低いためでもある。善であろうとしても批判や葛藤に晒されるが、悪は批判ばかりか、たんに淘汰されてしまうだろう。司法によって、他者からの攻撃によって、社会からの孤立によって。現代社会において、むしろ淘汰されない悪のほうが珍しい。彼らがしばしば徒党を組みたがるのは、他者を威嚇すること以上に、悪の脆弱さをよく知っているためではないか。
そのように考えるなら、われわれが目にする悪人の健康度が高いのは当然ともいえる。彼らが「悪」のアイデンティティを維持しえたということは、こうした高い淘汰圧(=ストレス)を生き延びたことを意味している。それが資質なのか偶然なのかはともかく、そもそも高い健康度がなければ「悪」は維持できない。

日本の思想で「悪」を「芸術」の名のもとに、「肯定」する「ふざける」ことを肯定する「貴族思想」は、そういった「健康人」であることを、そもそも仮定している。彼らは「まだ」体が壊れていない。彼らが「ふざけ」ているのは

  • 自らの体が「壊れる」

ことを「ふざけ」ているのであって、その結果はたんに「体が壊れなかった」という「偶然」を意味しているにすぎない。

ここで再度痛感するのは、やはり「ヤンキー」は強い、ということだ。実際に非行に走っている時期には、ヤンキー的に振る舞うことは強力なアイデンティティを与え、仲間内からも承認され、場合によっては社会のほうも彼らの存在を面白がってくれる。やがてヤンキーを卒業し、地元で就職する際には、彼らの人脈や、上下関係を重んずる礼儀正しさ、高い身体能力などが有利に作用する。できちゃった婚に象徴されるように、性的にも活発であり繁殖力も高い。たしかに大きな成功に至るのはごく一握りかもしれないが、彼らにとって「やんちゃ」だった過去はすでに勲章である。

掲題の著者は、一貫して「ヤンキー」を嘲笑する。それを、

と呼ぶ掲題の著者は、「ヤンキー」であることは、根本的に否定されることが前提とされている。しかし、そうなのだろうか。というのは、自分自身のことを考えてみても分かるのではないか。もしもあなたが、大学に進学しなかったら、どういった人生を送っていただろう。もっと自分の身の回りの人と行っている

  • 慣習

の中を生きているのではないか。そしてそれは、こういったインテリや自称思想家の「普通」や「常識」から、馬鹿にされる。しかし、なにが「普通」なのだろうか。生きることは常に、自分の身の回りから私たちが受けることになる出来事そのものなわけであろう。むしろヤンキーは、非常に倫理的だし、人間としてずっと尊敬できるのだ。
人間は「壊れる」。簡単に壊れる。喩えば、。血管を考えてみよう。ある時、高血圧にみまわれたとする。血圧がピョンと跳ね上がる。たったその一瞬によって、血管がつまり、血管は「破壊」され、脳は次々とその細胞があふれた血液によって壊れていく。
これが人間である。
私は徹底して「健康人の哲学」に反対する。それは非倫理的だからだ。健康を前提にした連中だから、「ふざける」ことができる。つまり、「ふざける」ことを行っている時点でそれは、「健康人」を

  • 前提

にしている。だから、日本国民の福祉を廃止して、地球の裏側の人を救うべきだ、といったような「非倫理的」なことが言える。つまり、彼らはそう言うことで「ふざけて」いるわけであり、恐しい悪魔の思想なのだ...。