「ray」においては、「別れ」と、その悲しい光を「封じ込め」ることの関係が考察されている。ここにおける「別れ」には多くの意味が含まれていると解釈できる。もしかしたら「死」を見ているのかもしれない。
お別れしたのはもっと 前の事だったような
悲しい光は封じ込めて 踵すり減らしたんだ
こちらの場合、その「お別れ」は離れていった人の側というより、残される側がその状況を受け入れられないことの意味について示唆をしているのだろう。「簡単に壊れる」人間において、その重大な事実に直面して、まさにその深刻さに直面できない
- 残された人たち
は一体どうしたらいいのか? いや、なにができるのかということでもある。結局なにもできないとするなら、これは一体なんなのか、ということでもある。つまりその「悲しい光」は封じ込めて、そのまま、となることしかできないのではないか。
いつまでどこまでなんて 正常か異常かなんて
考える暇も無い程 歩くのは大変だ
「健康人の哲学」は常に、なにが「健康」か、つまり「普通」とか「一般」といった
- 単純化
に、あらゆる情熱を注ぐ。いわゆる「デカルト哲学」である。人間を「異常」と「正常」、「無能」と「才能」などによって分類して、階層化を行い、この社会の人間を「役に立つ」、「役に立たない」の二種類に分け、後者への福祉に反対する。
しかし、「簡単に壊れる」人間の哲学においては、そもそもそういった分類を認めない。それは、現実に無理だからなのだ。正常か異常かなどということを「考える暇もない」という形でしか、生を繋ぐことができない。私たちが生きるとは、本当はそういうことなのだ。
しかし、だとするなら、私たち「残された」人たちにとって人生とは、たんに「絶望」なのだろうか?
大丈夫だ あの痛みは 忘れたって消えやしない
お別れした事は 出会った事と繋がっている
大丈夫だ この光の始まりには 君がいる
なぜ「大丈夫」なのだろうか。それは、一緒にいたときには見えたけれど今は見えなくなった「透明な彗星」が示唆している。透明「だから」なくならない。それは、どういう意味なのか。私たちが生きるということは、結局のところ、その「透明な彗星」という「光」の先に、今はなき相手を「見て」いることと同値なのだろう...。
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