東浩紀先生の「実在についての信念の私的性格」

なんかおかしいな、と思い始めたのはいつだったのかも忘れてしまったが、なんか、とりあえず言っていることが変だと思い始めて、調べ始めたわけだが、結局のところその理由が今だによく分からないというのが、東浩紀先生のレトリックというわけだが、一つのヒントとなるものを、以下の方が分析してくれている。

東浩紀が「南京虐殺否定論の言論の自由も確保しなくてはならない」と述べた際に依拠していた、ピーター・シンガーホロコーストで死んだ祖父母について語ったエッセイを読んだ。そしてわかったのだが、東とシンガーの議論は、かなりトーンが違う。
@ken_kawamura 2015/10/19 22:16

このエッセイには大体次のことが書かれている:1ホロコースト否定論はクレイジーな議論であり、我々はホロコーストのリアリティを議論と証拠に基づいて彼らに突きつけ続けなくてはならない2この過程を重視するからこそホロコースト否定論者のものも含めて言論の自由は確保されなくてはならない
@ken_kawamura 2015/10/19 22:19

オーストリアが戦後直後の混乱期にナチのプロパガンダを禁止することは合理的判断だっただろう。だが喫緊の危機は去ったのだから法を維持する理由はない4暴力が差し迫った状況下における人種宗教的扇動を禁止する法は表現の自由と矛盾しない
@ken_kawamura 2015/10/19 22:20

驚くべきことに、これが東の議論では1'南京事件はあったと思う2'南京事件を否定する言論の自由は確保しなければならないと思う、となる。確かに2の判断は一致しているが、1の系列における東の立場はシンガーからはるかに後退している。
@ken_kawamura 2015/10/19 22:22

両者の差異がわかりづらい人のために補足しておくと、2008年の共著『リアルのゆくえ』では「ぼくは南京虐殺はあったと「思い」ますが、それだって伝聞情報でしかない」となっている。つまり東の議論では虐殺の実在についての信念の私的性格が強調されているのである。
@ken_kawamura 2015/10/19 22:23

シンガーの議論は、思想の自由市場における決着を最重視する(1、2)とともに、ヘイトクライムの一部となりうる場合には差別的扇動自体を違法化することも辞さない(4)という、アメリカ型の自由主義のバランスと近いものだ(c.f.ブライシュ本)。この立場には確かに学ぶべきものがある。
@ken_kawamura 2015/10/19 22:24

しかし、こうした広い射程を持つはずの議論が、2の法的な言論の自由の是非だけに焦点化されることによって、1の論者自身のコミットメントの問題などの多様な論点や、それらとの兼ね合いにおける苦渋の決断が切り詰められてしまう。これは東の例だけに限られた傾向ではないように思われる。
@ken_kawamura 2015/10/19 22:26

うーん。というか、こういった傾向は日本のいわゆる「哲学研究者」が書く、一般的な哲学「入門」書においては、氾濫しているように思われるのだが。例えば、永井均とか、中島義道とか。
なんらかの「私的」な性格のものを、特権的に哲学の性格と「同一視」するかのようなレトリックはなんなのだろうか? 古くは京都学派の西田幾多郎なんかもそうなのかもしれないが。
こうやって考えてみると、そもそも、なぜこういった傾向があるのかが、よく分からないわけである。なぜ日本では、こういったことが起きるのだろうか。つまり、日本における「哲学」という分野の

  • 特殊性

こそが、そこに集約しているのではないか。
例えば、次のような問題を考えてみよう。東浩紀先生の今回の著作「観光客の哲学」では、「ふまじめ」という言葉が肯定的に使われている。しかし、もともとこの言葉は彼が「福島第一観光地化計画」という本において、

  • 軽薄
  • 不謹慎

と呼ばれていたことに対応しているはずなわけである。

「観光」という言葉には軽薄な響きがあります。「福島第一観光地化計画」という表現は、ともすれば、無責任でお気楽な「観光客」が、安全な立場から、事故の傷痕を「他人ごと」として「好奇心」に基づいて「楽しむ」だけのような印象を与えます。本計画の内実はそのようなものではないのですが、この名称を採るかぎり、そのような誤解もまた消えないかもしれません。
にもかかわらず、この表現を用いているのは、ぼくたちが、観光客の軽薄さを必ずしも悪だとは考えていないからです。

福島第一原発観光地化計画 思想地図β vol.4-2

福島第一原発観光地化計画 思想地図β vol.4-2

上記の引用がまず変なのは、さっきから問題にしている、この発言の「私的性格」なんですね。まず、ここで問題になっているのは、このプロジェクトを「観光」と呼んでいる側の主催者が

  • どこまで真摯なのか

を問うているのに、なぜか、その答えにあたる発言が、観光客側の人の「私的性格」になっているわけでしょう。つまり、まったく話がかみあっていない。言うまでもなく、実際に訪れる人は、さまざまに心の準備のないまま来てしまう人がいるだろうことは想定できるのだろうけど、だからといって、このツアーを企画する側が、どういった態度で彼らに接するのかは、まったく違う問題なわけでしょう。
すべて、東浩紀先生の議論には、そういった「私的性格」を使うことで、どんなレトリックも「最強」にしてしまう側面を感じるわけですよね。
だから、おそらく、「観光客の哲学」での「ふまじめ」は、この本自体が、柄谷行人の壮大な「パロディ」となっていることを考えるなら(実際、最初の章が「二次創作」となっているくらいですから)、この「ふまじめ」は、柄谷さんの用語の

  • ヒューモア

に対応していることは自明なのであろう。しかし、そこにある反転がある。つまり、この「軽薄」「不謹慎」「ふまじめ」という三つの用語は、藤田直哉氏が著書(『虚構内存在』)で指摘していたように

ブラック・ユーモアの大きな影響があったと考えることが自然であるように思われるわけである。
ただ、ここでは筒井康隆のSF小説の作品論をやりたいわけではない。むしろ、その重要なポイントは彼が、てんかん問題を契機にして断筆宣言をした、その経緯こそが、ことの本質をよく示しているように思われる。

これは、筒井氏の差別意識を問う問題ではなかったのに、筒井氏がむきになって発言したために、逆に筒井氏の差別意識が露見してしまっている。
「覚書」が言う「てんかんを持つ人を差別する意図はなかった」という意味は、差別することを目的として描いた作品ではないという意味である。 自分がてんかんに対して差別を持っていない、あるいは差別するつもりはないという心情告白ではなく、文字どおり、「この作品において、小生がてんかんを持つ人を差別する意図はなかった」という方針の説明である。「意図はなかった」が実際は差別をしているかもしれない。自分は意識していないと言っているのである。
佐藤めいこ「何だかおかしい 筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題」

こうして事件の経緯を丹念に追っていくと、実にめちゃくちゃであることがわかる。常に自分たちに都合のいい方向に話を持ってゆき、肝心な話はなされない。そうこうしているうちに別件で解決としてしまう。
当事者同士の争いはこんなもので、駆け引きや出方で勝負が決まってしまうのだが、今回の事件を、私は、当事者間の問題としたくはなかった。なぜなら、差別や表現といった問題は、みんなの問題で、この事件も筒井氏とてんかん協会と角川書店がよければいいというものではないと思うからだ。
差別表現等に関して筒井氏は、抗議は直接本人に行うよう希望し、自分もまた使う場合は相手に「この表現を使いたいと言って了解を求め、表現の自由を勝ち取っていく」('94・11・7記者会見)という姿勢を見せているが、誰かの許可を取って書けば問題がないわけではないし、そうして書くことが表現の自由であるとは思わない。
「お墨付き」をもらって書くのではなく、評価を問うために書くのが表現の自由なのではないか。好きなように書いても文句を言われないのが表現の自由なのではなく、書くこと、表現することが生み出すすべてのことに対して常に自分が責任を取る覚悟で果敢に挑戦していくことが、表現の自由なのではないか。
今回のてんかん協会の抗議も筒井氏に直接言ったのではらちがあかず、公的な抗議としたから取り合ってもらえたのかもしれず、私はこれらの問題を関係者だけで処理してしまうことには賛成しかね、みんなの問題として公開して解決を見い出していくべきだと考える。
佐藤めいこ「何だかおかしい 筒井康隆「無人警察」角川教科書てんかん差別問題」

筒井康隆の断筆宣言問題は、いわゆる「言葉狩り」とか「芸術としての聖域」といったような、筒井自身が自分で勝手にアジェンダセッティングしたような

  • 私的性格のもの

の範囲の話だったなら、上記にあるように「当事者間」で勝手に、なんだか分からないまま、うやむやになっていくものだったのかもしれない。しかし、そもそも

  • 差別

の問題がそういった「私的性格」のものとしたままにしておいてはならない、という現実の倫理があるわけでしょう。それに対して、誠実でなかった時点で、筒井康隆の醜い「あがき」は、まったく社会から相手にされなかった(実際、最近も従軍慰安婦像の件でやらかしたそうで、関西のネトウヨテレビ局に出演するようになって、いっそう、そういった性格が助長されたのであろうw)。
しかし、こうやって筒井を馬鹿にしているだけで、十分なのだろうか。というのは、これこそ東浩紀先生のお得意のメソッドそのものではないか。彼は筒井をまさに、師匠のように尊敬しているわけなのであって、まったく同じようなレトリックで、世の中を

  • 「軽薄」「不謹慎」「ふまじめ」

で、「楽し」んでいるわけで、まあ。恐しい話なわけである...。