第三者的存在

今回のバニラエアの問題をネットで見ていて、私は興味深い印象を受けた。まず、バニラエア側は問題の事件が起きた後すぐさま、「謝罪」をして、改善策を行っている。ということは少くとも、バニラエア側がなんらかの過失を認めているわけである。
それで、事件のほとんどすべての本質が尽されていると考えるのが普通に思われるわけであるが、その後、ネットを炎上させた話題は、その当事者の車椅子の人が「クレーマー」だとして、非難される、という事態だったわけである。
おそらく、そういった解釈をした背景には、そういったその人を「レッテル貼り」することによって、この論戦に「勝った」と思う人の「日常」がすけて見えてくる。おそらく彼らはそういった日常を生きているのだろう。毎日が、自分に対する「クレーマー」との戦いの日々だと思っていて、そこにおいて、車椅子かどうかは関係ないわけだ。
しかし、今回の事件を特徴づけるものは、バニラエアは航空会社であり、つまり、

なわけで、そこに対して、どういった対策がなされていなければならなかったのかは、まったく、そういった多くの経営者が感じている日常の「クレーマー」とは明らかに分けて議論がなされなければならない、ということは自明だったわけである。
早い話が、相手を「クレーマー」と呼称することが社会的に「認知」されれば、そう呼ぶ側は

  • 完全な善=完全な正義

として、相手をマウンティングできると考える、毎日を「クレーマー」対策に追われている経営者たちの「完全勝利」を祝う事態に至らなかった。それはどこか、この前の浦和と済州の暴力事件で、済州側が「浦和が最初に挑発行為を行った」といった「エクスキューズ」を行ったことに似ている。つまり、大事なポイントは、浦和が事実として「挑発行為」を行っているかどうかと関係なく、済州側の選手の「暴力」は断罪されるし、その罪の重さか「変わらない」ということなのだ。
つまり、この車椅子の人が「クレーマー」と言われるかどうかに関係なく、バニラエアの、この会社の姿勢には「問題があった」ということを本人たちが認めているわけで、そこに、実際は車椅子の人が「クレーマー」だったのかどうかは

  • 関係ない

というところが重要なポイントなわけである。
しかし、そう言ったとしても、「クレーマー」レッテル貼り主義者の「正義の鉄槌」は下りないのだろう。それは、バニラエア側が謝罪し対策をしたのは、この「クレーマー」が

  • しつこい

ために、最後は断れなかった、と自らの体験に引き寄せて解釈するからである。彼ら、経営者の口癖は

である。彼らは日々、そういった人たちと「戦って」、経営を行っていると思っているので、なんで「自分たち」クレーマーに悩まされている側が負けるなんてことが起きるのか、そんなはずはない、と思っている、というわけである。
おそらくは、この「闘争」は死んでも終わらないのであろう。本気で「クレーマー」を敵だと思っている経営者は、世界中から「クレーマー」を抹殺しない限り、自らのビジネスの成功はないと思っている。そういう意味では、彼らを駆逐するためなら、なんでもやるのであろう。
しかし、ね。
こういった、障害者を「クレーマー」扱いをする経営者と、彼ら障害者たちの戦いは、現在の日本社会においては、なぜ日本の

はここまで「遅れて」いるのかをよく説明している。こういった時代の趨勢に徹底して抵抗しているのは、こういった障害者を

として扱うことに、なんの抵抗も感じない、むしろ、そういった「バリアフリー社会の実現」が、自らの経営の「目的」とはなっていないことを彼らは問題視しない。つまりは、むしろ、こういったバリアフリー社会に徹底的に抗う結果になっていることについてさえ、自覚がない、ということが恐しいわけである。
言わゆる

  • 健康人

としての日常が
それは、いわゆる「健康人」たちによる、「壊れやすい人間」に対する

を結果する。自分たち「健康人」の「自明性」や「常識」が一切の、

  • 正常

の「基準」となっているということを疑わない、そのことの「恐しさ」が、よくあらわれている、と言えるわけである。
彼らの定義する「クレーマー」は

  • 絶対悪

なのか? 彼ら「健康人」は、自分がこうやって「クレーマー」に追い込まれることのない

  • 健康人

であることを、内心で言祝ぎ、そうやって、障害者を「かわいそう」な人たちとして見ると同時に、自分に向かってくるやいなや、「クレーマー」というカテゴリーに押し込んで、自分は陰に隠れる。本当の人間と向き合うことができないような経営者は、ビジネスなんてやめてしまえ。これは、障害者の人たちを

  • 人間として扱う

のかどうかが問われている非常に重要な実存的な問題が問われているのであって、それを否定する時点で、相模原事件の容疑者と変わらない差別主義者であることを示しているわけである。
私はこういった問題を何度も見てきた経験から思うことはなぜ、多くの現場には

のいることの重要性が理解されないのだろうか、と思うわけである。
例えば、学校での子どもの「いじめ」を考えてみよう。明らかに、その教室で「いじめ」が行われていて、その「いじめ」られた生徒が自殺をしたのに、教師も「いじめ」をしていた生徒も、

  • おれは悪くない

みたいな「言い訳」に終始する場面が多く見受けられる。しかし、私にはこういった当事者の反応には、大きな違和感を感じる。なぜなら、この

  • 構造

なら、そうなることは少しも「不思議ではない」わけであろう。こんな「自殺」は、今まで、日本中を探せば、いくらでもある。そうであるのに、なぜ「おれはそういった事件とは違う。例外なんだ」って言えるわけ?
なにが悪いのか?
例えば、こう考えてみよう。もしもこの学校に、ある「第三者機関」を作ったとする。そこでは、まず、まったく学校とは関係ない人たちによって、人が集められ、まったくの「利害関係」を一緒にしない、まさに、

  • 生徒とも先生とも、なんの人間関係もない「あかの他人」

を連れて来るわけです。彼らは学校がそもそも「なにをやっているのか」を知らなくてもいい。とにかく彼らには、ただただ、

  • 生徒が自殺をしないための「あらゆること」をやってもらう

とするわけです。彼らには、学校を「監視」してもらい、そこに「いじめ」を疑わせる兆候があったとき、特権的な権限によって、学校への

  • 介入

を許すわけです。こういったシステムは、いわば「反自治」の考えと言ってもいいでしょう。まあ、どこかしら「監査」とか、「品質保障」の部署の役割に似ているかもしれません。
上記の「弁証法」が、気持ち悪いのは、

  • お客
  • 経営者

の二項対立において、「お客」を「クレーマー」とレッテル貼りをするのが、「経営者」なわけだが、そもそも「経営者」は

  • 当事者

なのだから、こういった当事者側の「主張」を、そのまま、ダダ漏れさせることの方が、多くの利益相反があるわけでしょう。つまり、どの「お客」が「クレーマー」なのか、そうでないのかを判断するのは

でなければ、「お客」という本来的には「弱い立場」の側が、泣き寝入りを強いられることになる、という「システム」的な認識がないことに、日本社会の「病的」な傾向性がある、ということなのだろう...。